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今朝も電車は(仮題)

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 振り返った彼女はピタと動きをとめ、僕の眸を見つめた。というよりも、覗き込んできたと言ったほうがいいかもしれない。僕からすればまるで心の奥を覗かれてる気分だった。おそらく、警察沙汰にする前に僕が痴漢する人物か見極めようとしているのだろう。だが、何も疚しくない僕は、ただ見返すのみだ。いや、彼女が本気で疑っているかどうか、また感情的になって僕を非難するか、逆に彼女の真意と人格をはかってやろうという気持ちがあった。一方で、彼女がいつ声をあげるかと怖れてもいたけれども。
 奇妙な見つめ合いだった。それが何秒続いたのか分からない。もしかしたら一秒にも満たなかったかもしれない。先に幕を下ろしたのは彼女だった。彼女はもういいとばかり一度瞬きをして、うつむいた。そして素早く僕の手と鞄のあたりに視線を走らせると、何か納得したような表情で友達の方へと向き直った。
(分かってくれたのか?)
 僕は安堵しつつ彼女の後ろ姿を眺めると、彼女は残った興奮を鎮めるように一度深呼吸し、その肩を上下させた。女性特有の丸みをわずかにおびた、薄く幅の狭い少女ならではの肩だった。
(ああ、そうか)
 僕は、彼女の、まだ毛羽立ってるであろう気持ちを推測して、ひとり納得した。
 電車の揺れに伴って鞄が揺れているのは分かっていた。だが、揺れた鞄が彼女に触れているとは思わなかった。触れていたとしても、鞄の端が微かに触れる程度だったろう。しかしその微かさが勘違いされた原因なのだ。
 それは僕自身が痴漢されたことがあるから分かる。しかも二度だ。
 一度目は高校二年のときだった。当時僕は電車で高校に通学していた。下校時は友達と一緒のときもあったがたいていは独りで、その日も独りだった。夕方の車内はほぼいつもすいていたものだ。その日も、立っている乗客、座っている乗客共にちらほらとしかいなかった。能面のような表情でシートに座っている主婦。吊革にぶら下がるように掴まっている一仕事終えた態の、疲れているのか満足しているのか判別のつかぬ表情のサラリーマンなど。僕はそんないつもとたいして変わりのない乗客らを一通り見回したあと、これまた変わりのない吊り広告や景色を何の気もなく眺めていた。それは本当にただぼんやりとしたものだった。幼稚な日々だ。高校で突き当たった勉学の壁を突き破ろうとせず、かといって部活動に励むわけでなく、家族関係も交友関係も何もかもただ漫然と繰り返していた僕にとって(それは今でも似たようなものかもしれないが)、高校生活というものは無意味で憂鬱なものでしかなかった。
 ところで、僕の近くには、誰もいない筈だった。乗ってすぐ、誰からも離れている場所に立っていた筈だった。しかし、ふといつの間にか、男が近くに寄っていた。見れば銀髪混じりの髪を綺麗に撫でつけ、知的に顔が整ったと言ってもよい紳士的な男だった。今でもやけに印象に残っているのが、その男が纏っていたダブルチェスターコートだ。いかにも高級そうな分厚いウール生地に、上品なキャメル色をしたコートだったのをよく憶えている。ダブルチェスターコートというと背が高くないと着こなすのが難しい印象があるが、男は中肉中背にもかかわらず、実によく似合って洒落ていた。
 最初僕はそれほど気にしなかった。興味のある広告を近くで見ようとしたのか、と思うくらいであった。
 おそらく、いつも無気力だった僕は、このときも締まりのない、隙だらけの顔をしていただろう。だがふと何かの気配を感じて反射的に見回したとき、その男に注意を払わずにはいられなかった。
 彼の顔は僕に対して真正面ではなくやや斜めに向いている。眼も僕を見るのではなくどこか遠くを向いている。しかし、意識だけはこちらに集中しているのが明らかだった。最初に見た紳士な印象とはうって変わって今は気味の悪さが漂っているのだ。
(どうしようか)
 僕は逃げるわけでもなく男の顔を見ながらその場に立ち続けていた。気味が悪いからというだけで、一二歩さがってあからさまに距離を置くのは男に失礼だろうという気がしていた。なんと無垢なお人好しなのだろうか。
 しかし、それが相手には付け入る隙だったに違いない。男はそろと僅かに間合いを詰めてくる。僕は彼の顔を注視し続けるが、彼は決して眼を合わせようとしない……次の瞬間、僕の全身は緊張した。指先に一瞬嫌な気配を感じて、僕は咄嗟に後ずさりながら手を引っ込めた。見れば、男の手元が少し揺れていた。ちょうどこの女子中学生が僕の顔を見つめたように、僕も反射的に男の顔を見やると依然として遠くを見る素振りのままだが、瞳が動揺で微かに震えているようだった。
 その後、彼がそれ以上の行動をとらないのは幸いだった。何故なら僕は彼の気色の悪さから動揺し、後ずさりするのが精一杯だったから。紳士的だったダブルチェスターコートが打って変わって怪しげに見えてきた。その分厚い生地の内側に得体の知れないものを隠しているようで。
 二回目は、その約半年後のことだった。
 夏休みに入ってまもなくの、予備校の夏期講習へと向かっていた朝、東京方面行きの電車は、通勤の人たちで混雑していた。七月も既に下旬だったが蒸し暑くはなかった、寧ろ雨で大気が冷やされていたようだった。何故、その日が雨だったことを憶えているかというと、傘を「使った」記憶が鮮明だからだ。
 僕は左手に傘を持ち、予備校のテキストや辞書類で嵩んだバッグのショルダーベルトを右肩に掛け、肩からベルトが落ちぬようにと右手は吊り輪を攫んでいた。
 雨雲が垂れこめているせいで、車窓を鈍く薄灰色な風景が流れていた。窓が突然黒くなり、車内に音が篭り始めると、電車が地下へと潜ったことが知れる。車窓の光を失い、天井の蛍光灯のみとなった車内は、互いに体を接して身動きの取れない乗客たちの腰下を暗くした。さらに乗客たちは、それぞれに傘を持て余していたので、足元は乱然とし、誰もが腿やふくらはぎに濡れた傘や荷物が触れるのを感じ、湿った不快を我慢していた。そんななか、幾駅もすっ飛ばす快速電車は充分スピードにのっていて、ガタゴトと周期の短い揺れを繰り返していた。
 その揺れが体の感覚を鈍感にさせていたのか。それは何の先触れもなしにやってきた。当時、僕はジーンズをタイトめに穿いていたのだが、そのジーンズの左バックポケットあたりにさわさわと、触れるか触れないかと微風のような何かが行き来しているのを、誰かの鞄か傘だろうと特に意識することなく無視し続けていた。しかし、その無視は、相手には無防備さ、または了解と受け取られてしまったらしい。突然大胆な動きで撫で始めたとき、やっと僕は自分の体、具体的には尻、が痴漢の対象となっていることに気付くという有様だった。
(俺は男だぞ! 誰だと思ってるんだ。しかも服を揉み洗いするような大胆な手の動きしやがって!)
 とっさに羞恥と怒りが湧いた。そして触っているのは誰かと意を決して左を振り向けば、僕と体を接していた斜め後ろの男は関係なさそうだったが、その男のすぐ後ろにグレイのスーツを着た三十代前半くらいの、僕より背がいちだんと高く、また胴囲がふたまわりは大きそうな肥った男がいた。
 おぞましい。
作品名:今朝も電車は(仮題) 作家名:新川 L