短編集92(過去作品)
我慢の限界
我慢の限界
男と女の付き合いというのはいろいろある。結婚を前提に付き合っている人、結婚までは考えていないが、いずれは結婚も視野に入れるつもりでいる人、中には寂しさを紛らわしたい一心で付き合っている人もいるだろう。
寂しさにしても、心身ともに寂しさを感じている人、身体だけの寂しさを紛らわしたい人さまざまである。
出会ってすぐに、
――この人だ――
と思える人が羨ましい。郁子はいつもそんな風に感じていた……。
普段は普通のOLをしている郁子には秘密があった。誰にも言えない秘密ではあるが、――誰かに聞いてもらえれば、きっと気が楽になるかも知れない――
とも感じる。
会社ではあまり誰とも喋る方ではない郁子だったが、学生時代は結構いろいろな話をする方だった。学生時代の郁子は男友達は多かったが、特定の恋人を持たず、いつも恋人の話をしている友達を羨ましく思っていた。
会社に入ってから、郁子は五月病に掛かってしまった。学生時代との違いについていけなかったというよりも、寂しさが呼んだ五月病、友達もバラバラに就職し、ほとんど誰とも連絡が取れなくなってしまっていた。誰か一人でも連絡が取れて会うことができれば五月病も少しは違ったかも知れない。
とにかく寂しい時期だった。だが、ある意味誰とも話さなかったのはよかったように思う。こむら返りを起こしている足に触られたくないという感覚と同じで、そっとしておいてほしい時期というのはあるものだ。
人それぞれの寂しさはあるだろうが、郁子の寂しさは心の寂しさを通り越して身体の寂しさを癒したかった。
決して誰でもよかったわけではない。郁子にだって好きな男性のタイプもあれば、どうしても受け付けられないタイプの男性がいる。タイミングというのがあり、ちょうど郁子にとってある意味その時が知り合うタイミングだったのかも知れない。
会社の同僚に、因幡という男が入社してきた。ちょうど五月病が治るか治らないかという時期のことだった。彼は郁子にとってどうしても好きになれないタイプの男性である。好きになれない男性は、最初に見た瞬間から、
――ああ、この人は駄目だわ――
と感じることができる。因幡はそんな男性だった。
どこで感じるかといえば、男の視線である。最初に見た瞬間から熱い視線を感じ、まるで舐めまわすように上から下へと視線が下がってくる。途中、胸や下半身で視線を止めるが、その時に感じる厭らしい視線にゾッとしたものを感じるのだ。
――何て粘っこい視線なのかしら――
初めてであった男性からそこまでの視線を浴びせられれば、さすがに気持ち悪い。しかもこれから一緒に仕事をしていこうという相手である。まるでヘビに睨まれたカエルのように萎縮してしまった自分が情けなくも感じる。こんな男と一緒にいなければならないと思えば、それだけでノイローゼになろうというものだ。
その思いを感じていたのは郁子だけだった。他にも女性事務員が数人いるが、決して他の事務員には熱い視線を向けようとはしない。当然のごとく他の人は因幡の郁子に対する視線は分かっても、郁子の苦しみまでは分からないだろう。中には、
「彼女、男性の視線を受けて羨ましいわ」
くらいに思っている人もいるかも知れない。そう思われているとすれば、それはそれで情けないことだ。
因幡は決して郁子に告白をしてこない。厭らしい視線を浴びせるだけだ。元々誰とも会話の少ない因幡だったが、郁子に対しても話しかけてくることはない。そんな性格なので誰からも相手をされない因幡の視線を余計に気持ち悪く感じるのも仕方のないことだ。
――もし告白されたらどうしよう――
ありえないことではない。今でこそじっと見つめられていて、ノイローゼになりそうなほど気持ち悪いが、告白されたらもちろん断るのは分かりきっているころだが、どう言って断っていいか分からない。
今まで男性に告白されたことも、男性の視線を感じたこともない。学生時代から特定の恋人がいなかったのは、告白されたことがなかったからだ。郁子は自分から好きになった人に告白できるようなタイプの女性ではなかった。普段から大人しめに見えることで、控えめな女性というイメージが出来上がってしまっていて、自分から告白をすると、きっと男性は引いていたに違いない。郁子は今でもそう思っている。
しかし、せっかく五月病が治りかかっての因幡の出現に、少し自分の性格を変えたいと思ったのも仕方のないことだ。今まで一人で行ったことのない居酒屋に一人で出かけることが増えたのだ。さすがに最初に入るのは抵抗があったが、二、三度入ったら、すぐに常連扱いにしてくれて、マスターからのサービスも変わってきた。他の常連客もいい人ばかりで、郁子にはとても居心地のいいところになったのだ。
自分からあまり話すことのなかった郁子だが、店や常連の雰囲気がいいこともあって、結構自分からいろいろな話題を話すようになったが、これほど話すことが好きだったということに一番驚いているのは、当の本人だった。
そんな中に三郎がいた。
三郎は郁子よりも二つ年下で、常連の中でもどちらかというと静かだった。店の中では常連の座る場所はほとんど決まっていて、皆カウンターなのだが、指定席を持っていた。三郎はいつも郁子の隣である。皆で話す時以外は、三郎との二人だけの話になるのも自然だった。
三郎は恥かしがり屋なのか、まともに郁子を見ようとはしない。会社でいつも因幡の厭らしい視線を浴びているだけに、それだけでも三郎が紳士的な男性であると思った。会話にしても、郁子が話しやすいように持っていってくれるところに年齢以上の大人を感じていた。
――こんな人が彼氏ならいいのにな――
と次第に感じるようになっていた郁子だった。
どちらかというと郁子の視線の方が三郎よりも熱かっただろう。まわりも二人の仲を公認してくれているようで、二人が会話している時には、決して誰も入ってこようとはしない。当然といえば当然である。
会社にいる時の郁子と、居酒屋での郁子、きっとまったく違っているだろう。会社で因幡の視線は相変わらずだったが、居酒屋で三郎と話をするようになってからというもの、因幡の視線がそれほど苦痛ではなくなった。
――勝手にすればいいわ――
くらいに思えるようになったからである。視線がいくら強くても、こちらが意識しなければ何ともないということを、その時に自覚したのだ。
郁子が三郎に惹かれていったのは、間違いのないことだ。そういう意味では因幡の視線が不幸中の幸いを呼んだともいえる。さすがに最初は気持ち悪かったけど、開き直って居酒屋で常連になり、そこで出会った男性が三郎である。結果オーライとでもいうべきであろうか。
三郎は常連仲間と同じで、建設会社に勤めていた。まだ若いので、現場での仕事だったが、性格的に大人しいこともあって、他の人たちから心配されていたようだ。
「ちょっと内気な性格なんで、思いつめなければいいのにと思っていたんだよ。でも、郁子ちゃんと知り合ったから、少しは変わるかも知れないな」
と三郎の同僚が話していたくらいだった。
作品名:短編集92(過去作品) 作家名:森本晃次