Hydra
「そんなこと言ったっけ」
相楽は表情を切り替えると、弁当箱の蓋を開けた。天利は総菜パンの蓋を開けると、言った。
「私、お二人の描く絵が好きです。いつも、廊下に展示されてますよね」
相楽の頬がはっきり分かるぐらいに赤くなり、柳岡は、自分の顔も同じようになっているに違いないと思った。髪で隠れた中で、耳が熱を帯び出しているのが分かる。
「ありがと」
相楽はそれだけ言うと、柳岡と顔を見合わせた。柳岡はどう返すべきか考えながら、美術部の空気を思い出していた。こういう会話には慣れていない。絵の評価を下すのはあくまで先生で、部員同士でお互いの絵について批評する文化は、根付いていないから。わたしの絵は少しパースが狂っていて、それは人間が集中して物を見たときの視界に近い。相楽は、そんなことを知っているだろうか。相楽の静物画には、いつもカーテンがかかったような青色が乗せられていて、わたしはその淡い涼しさが好きだけど、本人には言ったことがない。ようやく言うべきことが決まった気がして、柳岡は天利の方を向いた。
「美術部って、お互いの絵のこととか、感想を言い合う習慣がなくて。わたし達、顔赤くない?」
天利は瞬きを繰り返しながら、柳岡と相楽の顔を代わる代わる見て、小さくうなずいた。
相楽は、暗黙のルールを破る準備ができたように、両頬に手を当てて話すと、言った。
「えりかの絵は、迫ってくるんだよね。見てると、親とかにぎゅーってされる感じがする」
「えー、重いってこと?」
柳岡はそう言って笑いながら、パックの紅茶を飲んだ。相楽の例えは、天利の反応を露骨に伺っている。こうやって三人になった以上、天利家にも両親と娘という関係性が成り立っているか、確認したいのだ。天利から感想が足されるのを待ち切ることなく、柳岡は言った。
「相楽の絵を最初見たとき、すっと涼しくなったのを今でも覚えてる」
「あのブルーは、私も好きです」
天利が慌てて付け足した。相楽の顔に浮かんだ笑顔は、柳岡の知っている限り『本物』で、友人と共有するためのものだった。
「ほんと? まあ、ただの青なんだけど。何の色か分かる?」
「サングラス?」
柳岡が即答すると、相楽は声を出して笑った。
「無粋の極み。んなわけないじゃん」
天利が、何もなかった場所へヒビが入ったようにつられて笑い、柳岡は肩をすくめながら笑った。御飯が終わるのと同時に、相楽は『またあとでね』と言い残して立ち上がると、教室から出て行った。天利の視線がちらちらと倉神の席の周りに向いていて、柳岡は同じように顔を向けたとき、木戸と古賀の姿がないことに気づいた。昼休みが終わる直前に帰ってきたのは相楽だけで、木戸と古賀は戻ってこなかった。校外で買い物をしていて生活指導の先生に捕まったことを知ったのは、放課後のホームルーム。柳岡は瞬時に理解した。木戸と古賀は、相楽の言葉を本気にしたのだ。相楽はおそらく、職員室にそれを『通報』しにいったのだろう。説教が入った少し長めの会が終わって、ばらばらと帰り始めたとき、柳岡と浜梨の近くに来た相楽は言った。
「浜梨くん、今日はえりかを独占していいかな」
柳岡と相楽に天利が加わり、海岸沿いの帰り道を歩いた。相楽は足を緩めると、上り坂を指差した。
「そこちょっと上がったところに、公園あるんだけど。知ってる?」
柳岡は、ぎこちない笑顔を浮かべた。心臓も相楽から逃げたがっているように、胸の内側で変な跳ね方をしている。
「あったっけ?」
柳岡がようやくそれだけ言うと、天利がうなずいた。
「海がよく見える場所です」
柳岡は、両手で顔を覆いたくなったが、握りこぶしを作って堪えた。あれは、みんな知っている場所なんだ。よく考えなくても分かる。通学路から一本折れるだけなんだから。天然な浜梨は、知らなくても不思議じゃないけど。柳岡の様子を気にすることなく、相楽は道の先に視線を向けたまま、言った。
「ちょっと付き合って」
二人で天利を挟むように、公園のベンチに並んで腰掛けると、相楽は言った。
「二人とも、私がいいって言うまで、目を閉じて」
天利は目を泳がせていたが、意を決したように目を閉じた。それを見届けてから、柳岡は同じようにした。
「二人とも、もうちょっと上を向いて。目閉じてても、赤くなってきた?」
柳岡がうなずくと、相楽は言った。
「その赤色が見えたままで、しばらく待ってて」
蝉が鳴いている。柳岡がその音色に耳を澄ませていると、少しずつその音も遠くなって、すぐ隣にいるはずの天利も、どこかへ行ってしまったように感じた。相楽がマジシャンのように指を鳴らして、言った。
「開けてみて」
柳岡は目を開けて、景色に相楽の描く青色が被さっていることに気づいた。隣で、同じことに気づいた天利が小さく声を上げて、呟いた。
「この色……」
相楽は、歯を見せて笑った。
「私、子供のころは身体が弱くて。頭が痛くなったら、目を閉じるように言われてたんだ。落ち着いてきて目を開けたときに、いつも部屋が青っぽく見えたの」
柳岡は、黙って耳を傾けていた。相楽の子供時代の話は、初めて聞いた気がする。まだ青みがかった視界のまま天利に顔を向けると、言った。
「わたしと同じように見えてる? いや、そんなの分かるわけないか」
「相楽さんの絵と同じように見えます」
天利がそう言ったとき、地元の人が数人、世間話をしながら坂を下りていき、天利は唇を結んだ。世間話が聞こえなくなり、また蝉の音が帰ってきたとき、天利はその音に紛れ込ませるように言った。
「あの、今日はありがとうございました。助けてくれて」
「今日は、わたしと相楽だけだけど。浜梨とも、ずっと言ってたんだ。事前に相談もしないで、びっくりしたよね」
柳岡が言うと、天利は首を小さく横に振った。
「あの、本当にありがたいんですけど。大人が……」
「大人?」
柳岡が困ったような表情を浮かべると、天利は居心地悪そうに姿勢を正した。
「私の家は……、知りませんよね? あの、私と一緒にいるところを、大人に見られない方がいいです」
「いつも、この道は通らないの?」
柳岡が言うと、天利は少しだけいたずらっぽい笑顔を見せて、うなずいた。
「裏道がいくらでもあるんで、見られないように帰ろうと思えば、いくらでもできます」
帰り道、相楽がコンビニに寄ると言い、そこで別れた後は天利と二人になった。柳岡は、天利に合わせて歩く速度を緩めながら、言った。
「さっきの話だけどさ。大人に文句言われる筋合い、ないと思うけどね」
柳岡より少しだけ小柄な天利は、小さくうなずいた。そのとき、会話の間を繋ぐように特急が勢いよくトンネルから出てきて、風を切りながら反対方向へ走り抜けていった。柳岡は言った。
「うち、柳岡コンクリートっていうんだけど。知ってる? 通称、やなコン」
「はい、知ってます」
天利は、さっきより少しだけ緊張が解けたように、柳岡の方をちらりと見た。柳岡は、今の天利家の処遇のきっかけが鉄道工事だったことを思い出しながら、言った。
「親から、鉄道の話を聞いちゃったんだ。こんなに便利になってるのに、じゃああんたらは電車乗らないわけ? って思うよね」