Hydra
天利は小さくうなずいた。柳岡の言葉に乗るほど楽観的ではなく、それでもその目の奥には、自分が受けている扱いに対する怒りが暗く光っていた。柳岡は続けた。
「お父さん、今も同じ仕事?」
「私が小五のときに、鉄道の仕事はクビになりました。今は県外で働いてます。お母さんは別れるって言ってるんで、そうなったらもう帰ってこないと思います」
天利は練習していたように、淀みなく言い切った。何ひとつ気の利いた相槌が浮かばない柳岡を横目で見ると、続けた。
「お父さんは、工事と言いながら、実際には資材置き場の管理人でしかなくて。知ってますか? 昔、運動公園の近くにあったんです」
柳岡はうなずいた。確か、浜梨が凧上げをしていた少年を救った場所だ。天利は続けた。
「新しい工事が始まって、資材を運び込もうってなったときなんですけど。誰も知らない錠前で閉められてて、工事ができなくなったんです。それで日程がずれて、うちのお父さんはクビになりました。ドジなんですよ」
天利家の不遇にとどめを刺すような出来事だ。柳岡は言った。
「その錠前は、結局どうなったの?」
「鍵はなくて、結局切ったんだと思います」
天利は呟いた。柳岡がその横顔を見ていると、ふと目が合った。後は知っての通りというか、その結果、ここに今の天利がいる。
山の中に向かうバスが停まる停留所の前まで来ると、天利は足を止めた。
「ありがとうございました」
「明日もよかったら、お昼付き合ってね」
柳岡が言うと、天利は礼儀を崩さないように笑顔でうなずいた。背中で夕焼け空を割るその立ち姿は、童話に出てくるデフォルメされた小動物のようだった。人間に助けられて、いつか恩返しに来るような。
家に帰って広い居間に落ち着き、生き返らせた夕食を食べながらテレビを見ていると、相楽からメールが届いた。
『木戸と古賀、次に何かあったら停学なんだって。鐘川に確認したところ、二人が抜けても金曜の晩は肝試し決行らしいよ』
『倉神さん、取り巻きなしで行くのかな?』
『鐘川曰く、メンバーは巻嶋兄妹と倉神だって』
お昼でも怖いのに、夜におかっぱホテルの近くなんて、通るだけでも背筋が凍る。巻嶋の兄が大きな車を持っているから、それで行くのだろう。エアコンに乗って、感じたことのない冷たい風が通り抜けた気がして、柳岡は肩をすくめながら返信を送った。
『相楽、これからどうするの?』
『倉神の処遇のこと? 何もしないよ。すくすく育ってほしいね。私としては、学校には迷惑かけたくないんだよね』
倉神がバレー部のエースだという事実は変わらない。柳岡はそれを冷静に受け止めながら、思った。倉神が好き勝手にできるのは、学校からの期待を背負っているからこそ。でも、もしそのステータスが外れたら、相楽の考える『処遇』はどんなものになるんだろう。
このやり取りの中で、それを知ってしまうことになるかもしれないと思った柳岡は、ほとんど相楽を宥めるためだけに作られたような返信を送った。
『倉神さんが距離を取ってくれれば、それでいいよね』
『今は、警戒しておこう。私たちの基準で考えたらダメだと思う。倉神さん、年中ボールばっかり追ってるから。言わば、中身は犬じゃん』
悪意に満ちた言葉が、せっかちなシェフのフルコースのように、次々と運ばれて来る。でも、今なら安心だ。誰も聞いていないのだから。相楽はわたしに対しては、こういう皮肉めいた物言いを遠慮することはない。信頼されているからなのか、もしくは、天利を仲良しグループに引き入れるという案を受ける代わりに好き勝手するから、えりかは最優秀賞パワーで私の背中を支えてよ、なのか。その真意は分からないけど、このタイミングで浜梨からのメールが入ってきてくれたらと思う。ずっと辛いものばかり食べてたら舌の感覚がなくなるように、相楽とこのまま話していたら、いつかその毒に気づかなくなってしまうかもしれない。柳岡は、『三回まわって、ワンって。やらせてみたいね』と返信すると、浜梨にメールを送った。
『取り巻きを失ってなお、倉神さんは肝試しに行く模様。どー思う?』
すぐに返信が届いた。
『ある意味、本気の肝試しだな。他は誰が行くんだろ。心霊軍団?』
鐘川と巻嶋のことで、心霊軍団というセンスのかけらもない名前は、浜梨がつけたものだ。恥ずかしくて相楽にも言えない。でも、二人しか共有していない名前はどこか懐かしくて、今、自分の身を隠すとしたら、ここが一番、居心地がいい気がした。
『巻嶋は兄ちゃんも参加だから、四人ってとこかな?』
返信を途中まで打っていて、ふと思った。おかっぱホテルの絵が足されたのは、つい最近。しばらく考えた後、柳岡は付け足した。
『書き直さずに、一発でお化けの絵とか描ける? 写メ撮って、送ってほしい』
浜梨の絵を待っていると、相楽からの返信が先に届いた。
『天利さんを変身させたいね、雰囲気暗いから。私達と一緒にいたら、明るくなるかな?』
『メイクとかしてみる? 嫌がりそうだけど、顔立ちいいんだよね』
浜梨から返信が届いた。添付ファイルのお化けの絵は、多くが連想する白い布を被ったタイプ。ブルーバードのトランクに描かれていた絵も同じだったけど、違う点がひとつあった。鉛筆の線が、始点と終点で繋がっていない。トランク上のお化けは、そこが完璧だったのだ。本文には『これが限界』と書かれていた。柳岡は『よろしい』とだけ返すと、ソファに横になった。この瞬間がずっと続いてくれたら。旧知の友人と、何も知らない新しい友人と、子分を失って静かになった犬。でもとりあえず、天利と二人で話したことは、誰とも共有しない。
金曜日の放課後、相楽がロッカーのところで柳岡と天利を呼んだ。心霊軍団が小さな輪を作って、そこに倉神が混じっていることに気づいた柳岡は、言った。
「気合入れてんのかな? やっぱやるんだ」
鐘川と巻嶋、そして倉神のでこぼこトリオ。柳岡は笑った。幽霊を見たら、間違いなく鐘川と巻嶋は逃げ出す。二人は天利に対して何かしていたわけじゃないけど、今日のお昼に話しかけてきた。『やなコン』の令嬢は今、最高に調子に乗っていて、天利を救ってリーダー気取り。立場的に同格の相楽がいて、二人とも『正義感』が強い。その事実は、クラスに新たな緊張を生んでいる。おそらく鐘川と巻嶋は、わたし達との関係性を確認しに来た。わたしの表情を読んで、天利とは中立であることを示し、相楽には『肝試し行くけど、チクったりしないでね』という事前の申し入れをする。少なくともわたしは、正しくあろうとは思っていない。だから、肝試しを潰すようなことはしない。
天利を真ん中に挟む形で、わたし達は話しながら帰った。天利が相槌を打ったり笑顔になるまでの時間は少しずつ早くなっていて、相楽がコンビニに寄った後は天利と二人で話して、バス停で別れた。
夜九時、相楽からメールが来たとき、柳岡はブルーバードのトランクの絵について訊こうと思い、本文を作っていた。
『公園の向かいに放置されてる車、トランクに絵描いてあるじゃん。あれって相楽?』
送る前に相楽から来たメールを開いて、柳岡は本文を読んだ。
『巻嶋の兄、頭に懐中電灯つけてる』