Hydra
「凧かー。私すぐ絡まって、苦手だった。なんか、原理が分からなさ過ぎて」
「その子にも、俺が凧の上げ方を教えてたんだけどね。いつも遊んでた空き地が入れなくなってからは、その手前の道路で遊ぶようになったんだ。気づいて手を離させなかったら、感電するとこだったよ」
浜梨はそこまで話すと、アイスティーを一気に飲み干した。氷が引きずられるように豪快な音を立てて、足元を掬われたようにレモンが傾いた。柳岡と相楽が顔を見合わせて笑い出すと、浜梨は言った。
「なんだよ。いつもこうしてるんだって」
笑いが引いたとき、柳岡は言った。
「もう、二週間ぐらい前になるんだけど。わたし、天利のことを宮下先生に相談したんだ」
「そうなの?」
浜梨は、アイスティーを飲み干したことを今更後悔するように、空っぽのグラスに視線を走らせた。相楽はうなずくと、それとなく学校の方向に目を向けながら言った。
「今日、プール初めて入ったでしょ。私も見たんだけど、水から出られないように、頭押さえられてたんだよ」
「天利さんが? 倉神にやられてたってこと?」
浜梨が目を丸くすると、柳岡はうなずいた。
「わたしが先生呼んだときだよ」
「あれ、そういうことだったの」
それが正しい反応だと思う。男子と女子でレーンを半分で割って授業をするシステムだから、近いようで、中で起きていることは分からない。そう思いながら柳岡が続きを待っていると、浜梨は呟いた。
「小浦先生、分かってんのかな。なんか、天利さんに怒ってなかった?」
「あれは、天利さんが自分でそういう風にしたんだよ。レーン割ってごめんって」
柳岡が言うと、浜梨は一瞬だけ、並ぶ賞状に視線を向けた。
「倉神の奴、肝試しでヤバいのに憑りつかれたらいいのにな。てか、どうやったら天利さんを助けたことになるんだろ、マジで……」
浜梨の言葉が終わりきらない内に、相楽が口を開いた。
「結局は、力関係でしかないと思う。別に友達に囲まれてなくても、いいわけじゃん。だから目標は、天利さんが誰にも邪魔されずに、学校生活を送れるようになることだよ」
柳岡は、うなずきながら付け加えた。
「天利さん自身が手出しできない存在にならなくても、そういうグループの中に入ってれば手っ取り早いかもね」
言いながら、柳岡は思った。それはつまり、わたしが天利に声をかけるということだけど、相楽は首を縦に振らないだろうな。浜梨が『そこは線を引く人なんだ』と、この場で分かってくれたらどれだけいいか。
具体的な策がでないまま、相楽が浜梨を美術部に勧誘したり、柳岡が中学校時代の浜梨のエピソードを話したり、結局それだけで解散になった。日はまだ落ちていなくて、赤く光っていた。本題から逸れて終わったことに怒っているようで、ずっと追いかけられているように感じながら、相楽とも別れてひとりになった柳岡は、家までの道とは逆方向に歩き始めた。
最初からそうすることが決まっていたように、あの坂を駆け上がってブルーバードのトランクの前に立つと、誰かが足した星を消した。線も消して短く切り詰めると、それが元の長さの半分ぐらいになったところへ、新しく星を描いた。爆発までの導火線は、短くなった。柳岡は少しだけ軽くなった足取りを助けに、家に帰った。珍しく名士が二人とも揃っていて、天利家のことを知っているかということを、柳岡は制服から着替えることもなく訊いた。
分かったのは、天利の父は鉄道の補修員で、新しく線路を引くことで生まれる立ち退きに反対していた集落の面々は、工事に参加した天利家を村八分にしたということ。それは、柳岡が生まれるよりも前の話で、海水浴場すらなかった時代のことだった。集落にとっての『余りもの』なのだということを理解して、柳岡は自分の部屋に上がった。名士の娘の肩書きが外れるのと同時に、息の仕方が分からなくなったように苦しくなり、相楽にメールを送った。
『わたし、町だけじゃなくて人間が嫌いになってきた』
それから数日が経ち、ひとりで公園に立ち寄ったとき、柳岡は文通をしているような感覚で、ブルーバードのトランクの前に立った。短くなった導火線は、そのままだった。ただ、左上に四角い建物の絵が描かれていて、デフォルメされたお化けの絵が舌を出していた。柳岡はすぐに理解した。これは、おかっぱホテルだ。同時に思った。
このお化けの絵を一発勝負で描いたのだとしたら、センスがあると。
― 現在 ―
今のわたしは、一体どれだけ幸せになれば、気が済むのだろう。中崎直也と知り合ったのは、大学の学祭。共同作業で強制的に話すことぐらいしか、人と接点を持とうとしていなかった。美術部にも入っていなかったけど、絵を描けるということがゼミの仲間にばれて、人の輪に加えられた。ある日、学祭メンバーの飲み会の幹事だったのに、自分だけが遅刻してしまった。その時に唯一連絡がついたのが、直也だった。あの時の安心感がきっかけになったのかは、分からない。その年の冬から付き合い始めて、就職して一年が経ったとき、結婚した。
高校時代のあの曲がりくねった道は、一体何だったのか。特に、二年生のクラス。あれは、普通に生きる上では通らない方がいい『間違った場所』で、わたしはそこに巻き込まれただけだったのか。
スケッチブックの中には海岸線が足され、建て替えられた照明柱が等間隔に並ぶ。わたしが見下ろす先は、消波ブロックとビーチの境目。波が荒っぽく打ち寄せる、意外に深くて怖い場所だ。水は青を通り越して、紺色に近い。少しだけ混ざる緑が、元は同じ綺麗な海だとでもいうように愛嬌を添えているけど、わたしの鉛筆はそんなことまで表現しない。
息子の和之は八歳。わたしの絵の才能を受け継いでいる。絵の描き方を積極的に教えようとは、思っていなかった。小さい内から目の前に手本や先生がいたら、逆に壁になるような気がしていたから。そうして好きにさせていたらどんどん上達し、直也がコンクールに出すべきだと言い出すようになった。
同棲を始めるとき、直也が驚いたのは、わたしの荷物に混ざる『賞状』の多さだった。中学校から高校までの間で受賞したもので、どれも宝物だ。当時は、今みたいにニュースが動画配信される時代じゃなかったから、賞状以外の情報は、当時の町内会報とか地元の新聞を細かく見ないと手に入らない。でも、人々の記憶の中だけでそっとしておいてもらえる方が、気持ちは楽だ。柳岡はそこまで考えたとき、顔を上げた。影のない海岸沿いの道路から出てきて、海岸の方へ向けて歩いていく二人の後姿。頭が繰り返す。今日は、七月十四日だと。柳岡の思考はそこで途切れ、自分が描いてきた絵の歴史に戻った。