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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Hydra

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 男子に肩の動かし方を教えていた小浦先生が顔を上げて振り向き、険しい表情のまま駆け寄ってきた。背後で水が逃げるように動いて、振り返ったときに、倉神と木戸がプールサイドに上がるのが見えた。わたしがいるレーンに入ってきた天利が、いつの間にか水面に顔を出していて、初めて目が合った。ゴーグルすらしていない目は充血していて、そこに涙が混ざっているのかは分からなかった。お互いが呆気に取られたように数秒が流れたとき、天利は息を切らせながら、呟いた。
「ごめんなさい」     
「え?」
 柳岡が思わず訊き返すと、天利は、プールサイドに立つ小浦先生の方を一瞬だけ見上げた。
「間違えてごめんなさい」
 その言葉は、小浦先生にも向いていた。いや、この学校の『せんせー』に聞かせる言葉だった。柳岡が耳を塞ぐよりも早く、小浦先生が言った。
「レーンを跨いだら危ないから、気をつけて」
 天利がプールから上がっていく後姿は、さっきまで水の底にいたのが嘘のように無駄がなく、誰からの注目も浴びることを許さなかった。柳岡がゴーグルをかけなおして水の中に潜る直前、倉神の笑い声が微かに聞こえた。
 六限が終わり、相楽と部室へ歩く途中、柳岡は首を横に振ってきびすを返した。
「ごめん、帰る」
「えー、ちょっとさ。えりか、大丈夫なの?」
 相楽は振り返った。その行動自体、柳岡が期待していなかったものだった。
「天利さんのことさ、言いに行こうか」
 相楽の言葉に、柳岡は目を伏せた。もう、それやっちゃったんだよね。仕草だけで、相楽は察したようだった。
「言ったけど、あんな感じなの? 小浦せんせー、絶対気づいてるから」
 帰ると言い出したのは柳岡だったが、相楽は少しだけ前に立ち、部室とは逆方向に歩き始めた。その行先が分からず、柳岡は言った。
「相楽、どうするの?」
「え、帰ろうよ。ちょっとコンビニ寄ろう。いつも話す子は、もう帰っちゃったのかな?」
 誰のことか分からずに柳岡が顔を上げると、相楽は振り向いた。
「あの男子、誰だっけ?」
 このまま一緒に歩いていくのが、少し怖くなった。相楽の視界には、浜梨は映っていない。
「浜梨のこと? どうだろ。帰宅部だからね、彼」
「正義感強いって噂だし、えりか仲いいから。三人で共有できたらって、思ったんだ」
「わたし、中学時代の話したっけ? 子供を助けてさ、電車に轢かれる直前だったの」
 靴を履き替えながら柳岡が言うと、相楽はうなずいて、男子の靴ロッカーにつかつかと歩み寄った。すでにいた男子が気遣うように避けていき、相楽は当たり前のように浜梨のロッカーを開けて、外履きが残っていることを確認すると、言った。
「まだいるじゃん。ここで待とう」
「相楽、あのさ……」
「私、天利のことなんかより、えりかに火の粉が飛んでほしくないんだ。今日、やばかったよ」
 その、容赦の無い行動力。芯にあるのが友情なら、心を預けてもいいのだろうか。全部読み放題か、完全閉館。不器用なわたしには、その二種類しかない。いや、だめだ。柳岡は唇を噛んだ。相楽は、わたしと違う。だって、天利のことはどうでもいいと思っているに違いないから。
「ありがと……。あいつ、すぐ来るかな」
 そう言ったのが合図のように、階段を下りてくる音が廊下に響き、柳岡と相楽は同時に振り向いた。浜梨が顔を出して、柳岡にいつもの笑顔を向けた後、隣に立つ相楽に対しての表情を作れないまま、固まった。相楽は言った。
「浜梨くん、今日は用事とかある感じ?」
「ないけど」
 浜梨が即答すると、それが帰る許可であるように、相楽はロッカーから体をどけた。その有無を言わせない行動を見た柳岡は、宮下先生に話したときに相楽が一緒にいたら、違う対応になっただろうかと、少しだけ後悔した。浜梨が靴を履き替え、海沿いの道を三人で歩き始めたとき、柳岡は言った。
「あのさ、これからコンビニに行くんだけど。来るよね?」
「行くよ。行くけど。天利の話?」
「そう、このままじゃ気分悪いじゃん。それを共有しよって話」
 相楽は前を向いたまま、あっさりと言った。柳岡は追随するようにうなずいて、一度振り返った。どうしてこんなことを今思うのか分からないけれど、浜梨と話すのは、わたしであるべきだ。
「プライバシーを守れるところが、いいな」
 コンビニと言い出したのは相楽だったけど、わたしにも軌道修正する力はあるだろうか? 柳岡が答えを待っていると、浜梨は肩をすくめた。頭にあの公園が浮かんでいるということに気づいて、柳岡は首を横に振った。
「違うからね」
「なんか言ったっけ、俺。そうだなあ、家来る?」
 相楽の表情がぐるりと入れ替わり、それが笑顔に変わったとき、柳岡は安堵の息をついた。同時に浜梨の言葉が頭の中で理解されて、勢いよく振り返った。
「家? 何それ?」
 浜梨は少し顔を引いたが、笑いながら鞄をかけなおした。
「家だよ。その辺に寝てると思ってんの? 相楽さんも、別にいいよね?」
「浜梨くんがいいなら」
 相楽はそう言うと、笑顔のまま振り返った。目的地が決定されて、柳岡は思った。相楽だけに確認するということは、わたしは無条件に、受け入れられているのだろうか。その答えが宙に浮いたまま陽炎の先に消えるまで、柳岡は黙っていた。コンビニが見えたとき、浜梨は言った。
「何、飲もうと思ってた?」
「冷たくて、透明なやつ」
 柳岡が言うと、浜梨は笑った。
「水? それなら家にあるけど。相楽さんは?」
「透明で、冷たいの」
「それもまた、水じゃん」
 浜梨が言い、コンビニを通り過ぎて、柳岡は相楽の横顔を見た。また真顔に戻っている。お菓子と飲み物代が浮いたぐらいにしか、思っていないんだろうな。
 浜梨家は、運動公園に向かう途中の新興住宅地にあった。庭で水を撒いている女の人が顔を上げて、笑顔で浜梨に言った。
「おかえり」
 浜梨が母親との距離感を証明したいように苦笑いで応じると、浜梨の母は、後ろにいる柳岡と相楽を見て、目を丸くした。
「あら、友達? こんにちは」
 初対面の相手に対する挨拶は、相楽のマナーをコンマ数秒遅れで追従するのが、最も正しい。相楽の礼儀正しさは、高校生のレベルを超えている。ロッカーを塞いで待っていた姿とは正反対だけど、目的がなければ名前すら記憶しないあの身勝手さは、あくまで同級生用だ。
 居間に通され、アイスティーが三つと、クッキーのバスケットが出された。本棚の少しがらんとしたスペースには賞状が二枚。浜梨が人助けをしたときの、感謝状。相楽は目を細めて本文に目を走らせると、言った。
「五年のときにも、助けたんだ。すごくない?」
「そのときは、凧だったけどね。近所の子供で、よく一緒に遊んでたんだ」
「そういや、浜梨の歴史とか、わたし全然知らないや」
 柳岡が言うと、浜梨は声を上げて笑った。なんとなく人の気配が減り、浜梨の母が心配するのをやめて立ち去ったことで、今ようやく本当のプライバシーが確保されたことを柳岡は悟った。
「いや俺、偉人じゃないから。知らなくて当たり前じゃない?」
 相楽がアイスティーのストローにつけていた口を離して、笑いに加わった。
作品名:Hydra 作家名:オオサカタロウ