Hydra
誰かが、聞いていたのだろうか。柳岡の心臓が、自分以外の臓器を罰するように、強く跳ねた。足早に立ち去る間も、廊下にその香りが続いていた。柳岡は校舎から飛び出して、小走りに海岸沿いの道を歩くと、坂を駆け上がった。これが原因で天利への風当たりがさらにきつくなったら、どうすればいいのだろう。自分が逃げ帰れる場所は、長年地元に貢献した名士の娘だということ。しかしそこには、他の人間を連れて帰れる隙間などない。それに、名が通っているのは、あくまで『あの両親』だ。自分の娘であっても変なところに火を点けた厄介者として、あしらうかもしれない。そもそも、天利家のことは知っているだろうか。
談話室が空くまで待っていたから、日はほとんど落ちている。最初に訪れた夕方と違って、海岸沿いの道路に並ぶ照明柱がオレンジ色に光り始めて、木で頭上を囲まれた公園への道は真っ暗闇に感じる。あの小さな公園の前だけが、街灯の白い光に照らされていた。柳岡はベンチに腰掛けると、すれ違う車が残す赤と白のライトの帯を眺めた。ぽつりと照らされた公園の中は、せんせーにチクった人間のために用意された表彰台のように、場違いに明るかった。少なくとも、ここには誰もいない。柳岡は、少しずついつもの深さを取り戻していく呼吸に集中した。
もう日が落ちたけど、家は、何も言わなければ部活だと解釈する。相楽には、家の用事で帰りますとメールで伝えた。その前日に、気合を入れて頑張る宣言をしたばかりだったけど、相楽はそこには触れることなく、『オッケー』とだけ返信を送ってきた。その距離感が好きだったし、今もそうだ。相楽には自分の世界があって、わたしが見ているのはあくまで、相楽が見せると決めた部分。だから、身を危険に晒すような相談はできない。
浜梨は、中学校時代からの付き合い。きっかけは三年生のときの文化祭で、当時から絵を描いていたわたしと、七十周年記念の垂れ幕を作ることになった。その頃には志望校の話も出ていて、合格すれば同じ高校だという会話から始まって、一緒に帰るようになった。
ある日、一緒に踏切で電車待ちをしていたとき、地面に跳ね返った光が目に飛び込んできた。線路脇で明るいグリーンのビー玉がきらきら光っていて、それを子供が拾い上げては地面に並べ直していた。今でも、猛スピードで迫る電車の警笛は忘れられない。浜梨が駆け寄り、子供を掴んで放り投げるように脇へどかせた。鞄が手から外れて、浜梨と子供以外の全てが身代わりのように、特急に跳ね飛ばされてバラバラに散った。救急隊員は、もし紐が腕に引っかかったままなら、片腕はなくなっていたと言った。その無鉄砲さを責める目の中には、到底敵わない何かを見たような、畏れのような色も混じっていた。浜梨が最初に人助けをしたのは小学校五年生のときらしく、そういう星の元に生まれたのかもしれない。全てを見ていたわたしは、悲鳴を担当しただけだった。
ちょうどいい人がいない。相楽からすれば『迷惑』で、浜梨はわたしが『やろう』とさえ言えば、周りが焼け野原になっても構わず、最後まで突っ走りそうだ。柳岡はどちらかに意味もなくメールを送るか考えていたが、結局何もすることなく立ち上がった。振り返ると、街灯の白い光をお裾分けされているブルーバードが見えて、柳岡はトランクの前に回り込んだ。描き直しができないキャンバス。ばくだんと描かれた大きな丸。尻尾のような線がひょろりと伸びていて、先端には星型のマーク。
「あれ?」
思わず声が出ていた。柳岡は目を凝らせた。これは、描いた覚えがない。少し顔を引いて、すぐに気づいた。これは導火線だ。よろけながら坂を下りて、海岸沿いの道に出ると、柳岡は全てから遠ざかるように、小走りで家までの道を急いだ。少なくとも、家には自分の部屋がある。いつも通り、車庫に車はなくて玄関は真っ暗。それでいい。今は誰の顔も見たくなかった。いつも通り、ラップをかけられた料理が冷蔵庫で死んでいて、それをレンジで生き返らせると、部屋で食べた。相楽からメールが来ていたけれど、開く気にはなれなかった。
あの導火線は、一体誰が? もしかすると、車のオーナーがどこかから全て見ていて、面白がって足したのだろうか? 結論の出ない小さな輪の中を行ったり来たりしていると、眠れないまま次の日の朝になった。車庫には車、玄関には三組の靴。朝食はスクランブルエッグとサラダ。ダイエットを気にしないお父さんだけ、ハムがついている。お母さんの相手をするのはテレビ。お父さんの相棒は新聞。わたしは携帯電話。
眠気でふらつきながら学校までの道を歩く間、あの導火線が本物になって、爆弾が炸裂してほしいと願った。相楽がトイレでこっそり化粧ポーチを開くと、医者のような正確さで目立たない『お直し』を入れてくれた。浜梨は何も気づくことなく『よっす』と言った後、下敷きを取り出して扇ぎ始めた。天利は、廊下に出された自分の椅子と一緒に登校した。柳岡は、その顔を初めて見た気がした。全体的に細くて華奢で、その大きな目は人がいない空間を探すように、常に動いている。
二週間近く、何も起きなかった。正確に言えば、今まで通りのことが起き続けただけだった。トランクの絵に足された導火線はそのままの長さで、あの公園は、浜梨と一緒に学校を出た日に立ち寄って涼む、憩いの場所になった。
お互いの唇が紫色になっているのを見て、相楽と震えながら笑ったのは、六月二十日のことだった。プール開きの日は、よりによって曇りで風も強く、水に入る環境には程遠かった。こんな暗いため池で泳がなくても、目の前に地元が誇る青い海があるのに。これから取り掛かるテーマは『海への思い』だけど、敢えて、ありとあらゆるゴミが浮かんで濁ったプールを描いたらどうだろう。柳岡は、頭に浮かんだ皮肉に口角を上げようとしたが、それすらうまくいかなかった。
「さ……、相楽?」
「遭難してるみたいだよっ……、な、なに?」
両手を胸の前で合わせながら、相楽は言った。
「わたし、海への思いのやつ、このプール描くから。濁ってて寒くて、最悪なやつ。わたしの海は、こ、これって」
「アンチ……、なんだっけ? アンチっ……、何とかって言葉、ない?」
歯がかちかち鳴って、相楽の言葉は途切れ途切れになっていた。
「アンチテーゼ? 分っかんない」
柳岡は、まだ少しだけ体温が残っていそうな相楽に、少しだけ近づいた。早く水の中に入りたい。ターンを決めた巻嶋がやっと帰ってきて、自分の番が来た柳岡は、待ちわびたように水の中に飛び込んだ。隣の第二レーンでは、倉神さんがゴーグルを持ち上げて前髪を留めている。同じレーンの中に、取り巻きの木戸がいた。何かを落としたみたいに、水中に目を向けている。柳岡は水の中に頭を沈めたとき、ゴーグルの隅に映る足が、もうひとり分あることに気づいた。水中を真っ二つに割るような倉神さんの長い足の先に、底で背中を押さえつけられている天利が見えた。
柳岡は、水面に顔を出してゴーグルをひったくるように取ると、叫んだ。
「小浦先生!」