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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Hydra

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 高校二年生だったときの、プール開き。本当に怖くて、仕方がなかった。一体、何が起きるのだろうと不安に感じている日は、たまに顔を合わせる程度の関係性しかない両親ですら気づいて、体調不良を疑うぐらいだった。
 大人になってから振り返ったとき、子供のときに経験したほとんどのことは、今の自分なら簡単に解決できるような取るに足らないことだったと、思えるかもしれない。しかし、天利に対する執拗ないじめについては逆で、当時『せんせー』と呼んでいた大人がいかに無力だったか、今の自分自身を見ているだけで理解できる。高校生だった当時のわたしは、目を逸らせなかった。どうにかして、助けたいと思っていた。そしてその全能感は、ギリギリ子供を名乗ることができる人間の持つ、特権だった。
 海水浴場に資材を運ぶ軽トラックが数台、駐車場に入っていく。自分が高校生だった当時の記憶と入り混じった目で見て思うのは、年月が経つにつれて、地元の海水浴場だったかつての地味な姿に戻りつつあるということ。高校を卒業するまで、特に夏は色んな人間が出入りして、大騒ぎだった。そんな記憶が少しだけ混ざりながらも、鉛筆は用紙の上をさらさらと滑った。いつもの海。無条件で付け加えられるのは、海を見つめる二人の人間の、後ろ姿。色んな人間を描いてきたけれど、常に二人で、海を見ている。夫からも子供からも『いつも誰かいるんだ?』と聞かれるけど、その場にいる人間を描いているわけじゃないから、誰もいないときだってある。でも今年は偶然、七月十四日にここへ来た。この日だけは、特別。柳岡は、後ろを振り返った。
 高校を卒業した次の年に、トタン屋根ごとブルーバードは撤去された。今はただの、乗用車一台分の何かがあった跡に過ぎない。撤去するとき、業者の人は不思議に思っただろうか。中が見えないぐらい埃が積もっているのに、なぜトランクだけが場違いなぐらいに綺麗なんだろうと。わたしが描いた観光案内のような地図と、あの丸い爆弾。トタンの屋根に守られていたから、雨が降っても関係なく残り続けていた。
 十六年前の今日。もう日は暮れていたけど、わたしは家にはいなかった。水たまりを避けながら、自転車を全力で漕いでいた。途切れ途切れになった記憶を繋ぎとめるように焼き付いた鮮明な記憶。真っ暗な中に聳えるおかっぱホテルの、地獄の口のように歪んだ入口。雨など降っていないはずなのに、何かが廊下を通り抜けたように地面を這う、水の跡。
 この目で見てしまった以上、わたしはあのトランク上の絵を、一秒でも早く消さなければならなかった。
     
     
二〇〇五年 六月 ― 十六年前 ―
    
 余計なことをしてしまったのだろうか。誰もいない談話室で待っていた『せんせー』は、少し緊張しているように見えた。宮下三郎という名前で、五十歳で、子供が二人いて。飼い犬はテリア。ひとりの人間として、面と向かって話すのは、初めてだった。浜梨にも言っていない。ただ、あるべき生徒の行動として、まずは担任に相談すべきだと思ったのだ。
 談話室はエアコンが効いていて、学校という組織から切り離されたように静まり返っていた。校長と教頭が何かを持って一緒に写る写真が、手の届かない場所から部屋を見下ろしていて、味方と思っていいのかどうかは、見当もつかなかった。柳岡は、背中を流れ落ちる汗がエアコンの風で氷水に変わったように感じながら、肩を一度震わせた。それが合図になったように、宮下は『天利がいじめに遭っている』という柳岡の話を総括するように、小さく咳ばらいをした。
「そういうことが、起きてるんだね。このことは、いつから知っていたのかな?」
「二年に上がって、すぐです」
 せんせーのクラスになってからと言うだけの勇気はなかった。柳岡は、宮下の分厚い皮膚の後ろで七変化する微妙な表情に、神経を尖らせていた。それでも、肝心な部分だけにモザイクがかかっているようで、次の言葉が何なのか、全く予測ができなかった。
「他に、見ている人はいるかな」
「クラスの中で起きてるんですよ」
 全力疾走した直後のように、声が掠れた。喉が、頭で考えることと全く逆の動きをしている。本能が危険を察知しているように。
「僕以外で、誰かに相談しているかな?」
 宮下の言葉は、冷え切った室内をつるつると滑った。その澱みの無さは、まるで初めから結論が見えているようだった。柳岡は、首を横に振った。
「この話をよくする相手は、クラスにいます」
「今日は、一緒には来なかったの?」
 これは、犯人捜しだ。それも、天利をいじめた相手ではなく、告発者の。柳岡は自分の視界が歪むのを感じた。朝にやってくる貧血のように容赦がなくて、背中に無数の氷片を当てられているように感じた。
「先生は……」
 声が途切れたが、拳を強く固めると、少しだけ喉が抵抗を弱めた。深く息を吸いこんだ柳岡は、言った。
「わたしと同じようには、感じませんでしたか」
「僕の知らないところでそのようなことが起きているなら、止めなければならない」
 柳岡は、顔を伏せた。人形と話しているみたいだ。確かに『せんせー』が見ている前では、何も起きていない。天利も突っ伏すことなく顔を起こしているし、その表情は後ろからだと全く読めない。
「これから、プールが始まりますよね」
 柳岡が言うと、それが全く関係のない話題だというように、宮下は眉をへの字に曲げた。
「再来週だね」
「体育のときも、バレーの授業でわざとボール当てられたり、してるんですよ」
 倉神さんを名指しするのに、これ以上のヒントはないはずだ。自分の口からその名前を出す勇気は、今のこの状況では到底生まれそうもなかった。
「そのボールを当てたというのは、事故ではないのかな? 誰かは覚えてる?」
 宮下は言い終えるのと同時に、口角を少しだけ上げた。柳岡はその表情からモザイクが取れた瞬間を見て取った。せんせーは、知っているのだ。それが倉神さんだということも、わたしに名前を出すだけの度胸がないということも。
「覚えていません」
「体育なら、小浦先生に連携しておく。それは構わないかな」
「はい」
 咄嗟に答えて、柳岡はすくんだ。わたしが許可を出したことになってる? その顔色の悪さに今初めて気づいたように、宮下は咳ばらいをした。
「柳岡さん自身は、そういう悩みはないのかな」
「ありません」
 即答すると、柳岡は椅子を蹴るように立ち上がった。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
 背を向けたとき、後ろから声がかかった。
「コンクールの結果、楽しみだね」
 あれだけ不快だと思っていた暑い廊下に飛び出したとき、生きて帰ってきたこと自体が奇跡なように感じた。柳岡は、大きく息を吸い込んだとき、熱を帯びた空気に微かな柔軟剤のような香りが混ざっていることに気づいた。
作品名:Hydra 作家名:オオサカタロウ