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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Hydra

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 柳岡は公園のベンチから、道路を見下ろした。全てが手遅れになるのを待ってから来たように、パトカーと救急車、そしてダイバーが集まり、真っ暗な水の底を覗き込んでいた。
    
    
― 現在 ―

 浜梨祐樹の遺体は、その日の内に引き上げられた。鞄も流されて遺留品は見つからず、事件性なしとされた。椅子接着事件は未解決となり、天利が再び登校することはなかった。夏休みに入り、どちらから言い出すまでもなく、相楽と部活に集中した。どうにかして、数か月の間に焼き付けた記憶を消し去ってしまいたかった。八月に入ったころ、談話室に案内される女の人を廊下で見かけた。色の落ちかけた服を纏った、くたびれた風体。最低限の礼儀だけを保つ宮下先生の表情は、人形のように硬かった。
 当時のことを思い出しながら、柳岡はかつて相楽が実演した青色の視界を再現するように、目を閉じた。
 あのときの宮下先生は、わたし達の前で見せるような『せんせー』の感じはなくて、いかにも担任といった貫禄があった。女の人は頭に包帯が巻いてあって、少し興味を惹かれたわたしは、前を通るときに少しだけ足を緩めた。聞き取れた言葉はいくつかあった。『申し訳ありません』とか『ご迷惑を』。そして極めつけは、『自主的に退学』。
 すぐに分かった。天利は母親を殺さなかったのだと。そして九月に二学期が始まったとき、『せんせー』が、天利が退学したことを朝のホームルームで伝えた。誰も、表情ひとつ変えなかった。相楽との関係は、始業式の日に戻った。三年生で違うクラスになるまで、天利と浜梨の話題は一度も出ることがなかった。そこからは部活だけで会う関係になり、違う大学に進学してからは、付き合いは一旦途絶えた。倉神さんも三年生で違うクラスになったから、その作られたような暗い顔は見なくて済むようになった。
 宮下先生は、卒業してから同窓会で会って、思い出話を機にSNSで繋がるようになった。『子持ちで飼い犬はテリア』という単語の情報からはるかに広がりを持つ世界が、そこには広がっていた。わたしは結婚しても『柳岡えりか』のまま名前を変えることなく、コメントを残したり活発に活動してきた。そして、わたしが二十七歳になったとき、ほぼ白髪になった宮下先生が花束を受け取っている写真が投稿された。そうやって『せんせー』は定年退職して、人の人生を左右することのない一般人に戻った。登山が趣味で、わたしがどこの山に挑戦したのかコメントで質問すると、元高校教師らしい表現で返事をくれた。
 相楽も同じSNSで探して、両親の会社で事務の仕事をしていることを知った。有給休暇を全て消化して全世界を旅行して回る、優雅な会社員。鐘川と巻嶋は見つからず、木戸は結婚して一児の母、古賀は広告代理店に勤めていることが分かった。そして、倉神はスポーツ理論を大学で学び 、中学校の『せんせー』になっていた。皆それぞれの人生を歩んでいるけど、その始点はひとつで、始業式の後に撮ったクラス写真に集約されている。
 南川原高校、二年C組。真ん中には、まだ髪が黒っぽい宮下先生。左上には、蝋人形のように無表情なわたし。真ん中の段には、記念写真顔の相楽と、いつも申し訳なさそうな表情の木戸と古賀。男子と隣り合わせの端には、少し笑っている倉神。その隣に、真顔の浜梨。宮下先生の真横には、小柄で目の下にクマの残る天利。
 いつか、新聞で名前を。廃墟の中で天利と交わした言葉は、ほとんど約束事のようだった。二度と会うことはなくても、十七歳で姿を消した天利は、絶対にわたしのことを調べると思っていた。もちろん、コメントやメッセージを残すことはないだろう。でも、天利が見るはずだという確信が原動力になって、わたしはSNSを更新し続けてきた。そして、さすがにその確信が薄れかけていたとき、宮下先生のページが更新された。タイトルは短く、『登山中に行方不明』とだけ。
 今でも、宮下先生は見つかっていない。
 全ての情報がわたしの手元に揃っているとして、天利は誰を選ぶのだろう。わたしはそれが、ずっと気にかかっていた。だから、どれだけ忘れたくても、当時の人間を誰ひとり放さず、自分の手元に手繰り寄せたままにしていた。もしかしたら、天利はわたしを標的に選ぶかもしれなかったし、その覚悟はできていた。気持ちは関係なく、結局クラスが一丸となって、天利が限界を迎えるまで痛めつけた。その事実は変わらない。
 行方不明になった宮下先生が最後に見たのは、天利の顔とその右手に握られる手斧なのだろうか。もしそうだとしたら、天利はどうやって宮下先生がよく登る山のことを知ったのだろう。わたしのお陰だとすれば、それは光栄なことだ。なぜなら、自分でも山に登って、宮下先生が撮った写真には『ここですね』と、場所のコメントを入れ続けてきたから。
 真相は分からない。確実なのは、夕方には帰ると言い残して出かけた人間が帰らず、五年が経ったということ。
 天利が決めたことが何であれ、わたしは彼女にそうする権利があると今でも思っているし、実際にひとりずつ殺していくことを決めたなら、わたしが集めた情報を頼ってほしかった。万が一、わたしが標的として選ばれて、殺す側と殺される側として再会したとしても、軒先に現れたその姿を見て驚くことで、悲しい思いをさせたくない。だから忘れないよう、ときどき集合写真を取り出しては眺め、天利の疲れた顔を記憶に刻み直してきた。ばかばかしいぐらいに、慌ただしかった二か月。それを実感したのは、天利が退学してしばらく経ってから、下の名前すら意識する時間がなかったことに気づいたときだった。写真の下には、当たり前のように他の生徒と同じ字体で、天利鏡花と書かれていた。
 あの日廃墟で見た、重そうなびしょ濡れの制服と、右手に握られた錆びついた手斧。現在進行形でも、未来形でもなかった、ちぐはぐな立ち姿。それから十六年が経ち、天利が何を捨てて何を得たのかは、わたしには分からない。ただ、彼女が見ているということを確信しつつ、毎年SNSに、落ち着く場所に来ましたと書きこんでいる。そこには相楽だけでなく、木戸や古賀からもコメントが書き込まれるときがある。決まって飛び出す言葉は『懐かしい』。人間というのは、残酷を通り越して間抜けなぐらいに、忘れっぽい。丁寧に返事を返し、大人になってから繋がった昔の仲間というふりをしながら、わたしが頭の中で呟いている言葉は、ただひとつ。
『天利さん、見てる? 人間ってこんなもんなんだよ』
 今こうやって目を閉じている間に想像するのは、涼しい青色の中に立っている天利の姿。再会を選んでくれるなら、いつでも。わたしは毎年、必ずここに帰ってくるから。
作品名:Hydra 作家名:オオサカタロウ