Hydra
「あの導火線は、天利さんが描いたの?」
天利はうなずくと、伏し目がちに俯いて、言った。
「柳岡さんには、感謝しかないよ。先生に相談してくれたのも、知ってるし」
柳岡は、耳が熱くなるのを感じながら、言った。
「幽霊が四人に石を降らせる絵と、エレベーターの絵は? あれも天利さんなの?」
天利は小さくうなずくと、熊のぬいぐるみを見下ろした。
「これ、私のぬいぐるみなの」
柳岡は、全身に冷たい風が走り抜けるのを感じた。天利は、柳岡に視線を戻すと、自分自身に呆れたように笑った。
「家に帰らないときがあるって言ってたでしょ。たいてい、ここにいたの。幽霊のふりして脅かしたら、みんな叫びながら逃げていくんだよね。だから、この前の肝試しのときも、あの四人を散々怖がらせてあげたよ。数珠とか巻いて驚かせようとしてたけど、珠の数変えたら、仕掛けた人が一番びっくりしてた。子供だよね」
おかっぱホテルに幽霊は実在したのだ。天利が笑っているのを見ると、柳岡は自分にも同じ笑いが染みこんでくるように感じた。天利は、がらんどうになったエレベーターシャフトの方へ、視線を向けた。
「小石を蹴飛ばしてシャフトの中に落とすと、すごい音がするの。いつもはそれぐらいしかしないんだけど、倉神さんが来てたから、特別にそこの扉を思い切り閉めてやったら、すごい勢いで逃げてった」
柳岡は、天利が崩さなかった『敬語』がどこにも見当たらなくなっていることに気づいた。空気が容赦なく冷え込んでいく中、天利は続けた。
「でも、二階を見下ろしていたらさ。倉神さんがひょいって頭を出してきたんだ。その後ろから手が出てきて、背中を押したの。五人いたんだって思ってたら、別の出口から浜梨くんが出て行くのが見えた」
天利は、柳岡の頭の中にある情報と、自分の言っていることが一致しているか、それだけが気にかかっているように、話すのをやめた。柳岡は自分の番が来たことを悟り、言った。
「相楽も近くまで来てたらしいんだけど、言ってたんだ。二階に浜梨くんがいたって」
「やっぱり、そうなんだ。浜梨くんが押したのか」
天利は濡れて張り付いた制服を持ち上げながら、納得がいったように呟いた。柳岡が言葉を発する前に、顔を上げた。
「浜梨くんは、私を助けるために飛び込んでくれた。その理由が分かった」
「殺したの?」
柳岡は言った。到底、現実的なことではないように思えたが、今は他の答えが浮かばなかった。天利はうなずくことも、首を横に振ることもなかった。
「私は今まで通り、余りものじゃないといけなかった」
「何を言ってるの?」
「あの袋、持ってきた?」
天利は鞄に目を向けた。柳岡は鞄の底を探ると、くしゃくしゃに丸まった袋を人質のように手に持った。天利は言った。
「家でちらっと見えたんだけど、中に入ってるものを出してほしい」
柳岡は、手の上で袋を逆さまにした。グリーンのビー玉が二個転がり出た上に、鍵がこつんと音を鳴らして跳ね返った。天利は、ポケットからシャックルが真っ二つになった南京錠を取り出すと、言った。
「その鍵、貸して」
柳岡が鍵を手渡すと、天利は南京錠に差し込んで、回した。シャックルの残った半分が音を立てて外れ、床の上に落ちた。
「浜梨くんが、あの空き地に鍵をかけたんだよ」
柳岡の頭の中で、記憶が音を立てて歪んだ。あの子供は、空き地が閉まっていたから外で遊ぶようになったのだ。それに、グリーンのビー玉がどうして、何個もあるんだろう。柳岡が助けを求めるように天利の顔を見ると、天利は苦い顔で呟いた。
「私は、浜梨くんに選ばれたんだと思う」
浜梨にとって、天利はあくまで、助けるべき存在でなければならなかった。柳岡は、天利が分厚い上着の腕をまくり、スカートの裾を絞って水気を切る姿を見ながら、思った。わたしと相楽の間でやり方が色々と噛み合わなかったのとは遥かに違うレベルで、浜梨には自分の『助け方』があったのだ。そうやって、あの部屋には『賞状』が増えていった。そして三枚目は、天利の番になるはずだった。
「どうするの?」
柳岡が言うと、天利は頭を傾けて、とんとんと叩きながら耳に入った水を抜いた。
「私? 高校は辞めるよ。ここから出て行く。決めたんだ。今後、私に助け舟を出したり、憐れんだりする人間には、残らず死んでもらおうって」
柳岡は、思わず後ずさった。天利の包み込むような言葉の中には、はっきりと自分が含まれている気がした。
「殺すってこと?」
「分からない」
天利は自分でも整理がついていないように、首を傾げた。柳岡はふと気になって、言った。
「どんな家なの?」
ここ二日、どうして冬服なんだろうと思っていた。今は腕まくりをしているから分かるけど、両腕に薄っすらとひっかき傷がある。柳岡が答えを待っていると、天利は床に置かれたくしゃくしゃの鞄から、錆びついた手斧を取り出した。
「やめてとは、言われなかったな」
柳岡は小さく悲鳴を上げて後ずさり、尻餅をついた。その反応を楽しむように、天利は言った。
「危ないよ。怪我しなかった?」
柳岡は立ち上がると、埃がもやのように舞う足元から一歩逸れて、言った。
「誰を殺したの?」
天利は口を猫のように大きく開けて、言った。
「母親。なあんてね」
柳岡はその言葉を聞いたとき、天利がこれからどんな人生を歩むのか、その未来が具体的なイメージになって、形作られるのを感じた。人生を先回りできたような感覚が力を与え、その勢いに任せて柳岡は言った。
「いつか、新聞で名前を見ることになるよね」
天利は、初めて意思の疎通ができたように、うなずきながら笑顔になった。
「うん。それか、柳岡さんに家庭が出来たころに、家にお邪魔するかも」
それが脅しのように聞こえなかったとき、柳岡は実感した。一方通行だったのかはもう分からないが、確かに天利は友達だったと。
天利は、新しい世界に旅立つ準備ができたように、手斧を見つめた。
「柳岡さん、これからも高校に通うんでしょ? 普通の人生を歩むんだよね」
柳岡がうなずくと、天利は歯を見せて笑った。
「あの絵を放っておいて、いいの?」
柳岡は平手打ちが飛んできたように、瞬きをした。同時に、叩き起こされたように心臓が跳ねた。
「何を足したの」
「なんだろ? まあ、消した方がいいかもね」
からかうような天利の言葉に、柳岡はよろよろと後ずさると、部屋から飛び出した。階段を駆け下りるとき、後ろから『バイバイ』と声が飛んだ。自転車で下り坂を飛ばし、海岸沿いの道から勢いよく、あの上り坂へ折れた。公園がぼんやりと照らされていて、自転車のスタンドを掛ける間もなく、その真向かいに置いてあるブルーバードのトランクに縋りついたとき、ほとんどの絵が消されていることに、柳岡は気づいた。その代わりに、それまで手が付けられていなかった場所に、大きな文字が書かれていた。柳岡は肩で息をしながら、俯いた。最後は、結局自分の身を守ることしか、考えられなかった。最初から、わたしには天利を助ける資格はなかったのかもしれない。そう考えていると、『いままでありがと』と書かれた隙間へ、降り始めの雨のように、涙が落ちた。