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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Hydra

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 浜梨が言うと、膝を抱えて体育座りをしていた天利は、顔を上げた。
「浜梨くん。ここが分かったんだ」
 浜梨はバツが悪そうにうなずくと、直射日光に顔をしかめた。
「ずっと、ここにいたの?」
「ずっとじゃないけど、一時間ぐらいかな」
 天利はコンクリートに話しかけるように、呟いた。隣に座ると、浜梨は言った。
「あれ、天利さんじゃないだろ? 何も変わらないよ。倉神さんはパニックになったんだ」
「私のせいで、迷惑をかけちゃった。最後には、こうなるんだよ」
 天利は、海を見つめながら呟いた。
      
 柳岡が驚いたのは、相楽の頭の中に『トランクの絵』という発想自体が、全く存在しないことだった。
「車って何? あのトタンの下に置いてあるやつ?」
「うん。公園の向かいにあるじゃない」
 柳岡が続けると、相楽はゆっくりとうなずいた。
「そうだね……。そこに絵が描いてあるの?」
 柳岡は、自分が描いた絵から、ここ数週間に描き足された内容までを、全て語った。ばくだんの絵の下りで、相楽は一度だけ笑ったが、エレベーターの箱と、後ろから押す人の絵の話をしたとき、その顔から血の気が引いた。
「えりか。メールで話せないって、言ってたことなんだけど。私、帰らなかったんだ」
「おかっぱホテルに行ったの?」
 柳岡は、できるだけ責める口調にならないように神経を使ったが、その出来は怪しかった。相楽は後悔しているように、顔を曇らせた。
「入口に先回りして、証拠写真でも撮ってやろうとか思ってたの。でも、陰から見えたんだ」
 柳岡は、夕日が冷蔵庫を照らすライトに変わってしまったように感じていた。同じ温度を共有するように、青い顔で相楽は続けた。
「二階に、浜梨くんがいたの」
   
 天利は、浜梨の横顔を見た。薄く色づいた空に照らされていても、その頭の中はよく分からなかった。
「家にお邪魔したとき、鞄見たよ。助けたときのやつだよね」
「捨てられなくて」
 浜梨は笑った。片付ける時間はなかった。誇らしい気持ちも、そこまではなかった。両親には、将来警察官になるんじゃないかと心配されているが、そんなつもりもない。ただ、困っている人を助けたときの安心感が欲しいだけだった。
 天利は、海を見つめながら言った。
「私も、捨てられないものがいっぱいある」
 しばらく沈黙が流れ、天利は立ち上がった。この広い海がゴミ箱なら、どれだけよかったか。何を捨てても、底で眠っているだけだと信じられたら、どれだけ身軽になれただろう。そう思いながら、天利は振り返った。
「私は、助ける価値があるかな?」
 浜梨が返事をするよりも早く、天利は海へ飛び込んだ。浜梨は慌てて岸壁に埋め込まれたはしごを数段下りると、天利が飛び込んだ位置めがけて飛び込み、潜った。真っ青な光が包む中で、容赦なく突き刺してくる海水の痛みに耐えながら目を開け、底に目を凝らせた。おぼろげに、渦を巻く砂が見える。浜梨が視線を少しだけ上げたとき、背後で水がふわりと揺れた。細い手が後ろから体に回り、振り返ったとき天利と目が合った。
 口角を上げて微笑むと、天利は両腕で浜梨の体を締め付けた。
      
 相楽と別れ、玄関のバスケットから自転車の鍵を取ったときは、すでに日が暮れかけていた。浜梨が二階にいたからといって、倉神を突き飛ばした犯人とは断定できない。でも、浜梨の性格を知っている人間ほど、『奴ならやる』と思い込むだろう。柳岡は自転車の鍵に絡まったスクーターのキーホルダーをほどきながら、思った。倉神がやってきたことは、許せない。でも目的は、倉神の代わりになることじゃなかった。ただ、天利を助けたかったのだ。
 柳岡は玄関から出ると、自転車の鍵をチェーンに差し込んで、回した。誰にも相談せずに、あんなことをするなんて。いや、相談した相手が百パーセント止めるということが分かっているからこそ、自分で決めて決行したんだ。浜梨が倉神を押した犯人だとすれば、今日の朝に瞬間接着剤でくっつけられた椅子も、浜梨がやったことに思えてくる。いつも通りの時間に登校してきた浜梨は、制服だけがお昼を過ぎたみたいに、くたくただった。
「……、なんで?」
 思わず言葉が漏れた。倉神をどうすれば、ゴールだったのだろう? 誰かがサンドバッグでないと、あのクラスは機能しないのだろうか。結果的に、今は天利の立場が悪化してしまっている。答えの出ない考えが頭の中を巡るまま自転車にまたがったとき、鞄の中で携帯電話が鳴った。画面に表示される『浜梨』という文字に、柳岡は思わず瞬きをした。通話ボタンを押すと、しばらくは無言だったが、小石がぶつかるようなこつんという音が鳴り、声が続いた。
「もしもし」
「天利さん?」
 浜梨の携帯電話だったが、声の主は天利だった。
「これ、浜梨くんの携帯だけど。拾った?」
 柳岡が言うと、天利は電話の向こうで笑った。その声は今までに聞いたことがないぐらいにはっきりとしていて、全く違う人間が天利の声真似をしているようだった。
「浜梨くんの鞄から出てきた袋、覚えてる? 持って来て」
 柳岡は答えることができずに、空いた手で自転車のグリップを握りしめた。
「おかっぱホテルに来て」
 天利は、柳岡が言おうとした『どこにいるの』という言葉を先回りして、電話を切った。柳岡は自転車を漕ぎ始めた。浜梨の鞄から飛び出してきた袋は、鞄の底に入ったままだ。いつの間にか夕日が照らすのをやめて、青と橙が入り混じる背景の一部になった。海岸沿いの道に並ぶ照明柱が次々と灯り、夕日が沈み切ったとき、上り坂をどうにか登り切った柳岡は、息を切らせながらスタンドを立てた。太ももは熱を帯びていたが、頭の中は冷え切っている。奥に向かって広がる真っ暗な空間に、柳岡は目を凝らせた。いつもの自分なら、足を踏み入れようとも思わない。柳岡は、念のため浜梨の携帯電話を鳴らしたが、もう繋がらなかった。普通の待ち合わせをしているわけじゃないんだからと、頭の中に残った冷静な部分に言い聞かせられ、柳岡は携帯電話のライトをつけると中へ入った。ガラス片がばりばりと音を立て、ライトをまっすぐ向けると、緩やかな螺旋階段が二階へ伸びているのが見えた。階段を上がり始めたとき、柳岡は、段の中央が濡れていることに気づいた。天井は乾いているし、雨は一週間近く降っていない。でも水の跡は、二階の廊下から階段へと伸びている。柳岡は、それを辿るように足を速めた。四階に上がり、廊下へ伸びた水の跡が不意に消えたところで、立ち止まった。おかっぱホテルという名前の由来になった『特別室』。足跡は、その中へ続いていた。柳岡は深呼吸をすると、思い切って足を踏み入れた。
 熊のぬいぐるみの隣に、天利が立っていた。
「来てくれた」
 天利は、口角を上げて笑った。柳岡は神経質に瞬きを繰り返しながら、言った。
「どうしたの……?」
 具体的な言葉が出てこなかった。天利は全身がびしょ濡れで、制服はいびつに張り付いていた。柳岡が間合いを詰めようとしたとき、天利は目をまっすぐ見返して、言った。
「ばくだんの絵を見たとき、私、すごく安心したんだ」
 ブルーバードの、トランクの絵。柳岡は息が漏れるのに任せるように、呟いた。
作品名:Hydra 作家名:オオサカタロウ