Hydra
三
二〇〇五年 七月十四日 ― 十六年前 ―
朝の八時十五分。前の席には、いつも通り相楽が座っている。天利が登校するのは二十分ごろで、最後に浜梨がぎりぎりでやってくる。終業式は目前で、期末試験は記憶がないぐらいに、過去のことのように感じた。答案用紙に書かれていた点数すら、もうはっきり覚えていない。『海への思い』がテーマのコンクールも、申し込み期日が迫っている。賞を取ってから特に、日常のスピードは猛烈になった。
「風邪、大丈夫?」
柳岡が言うと、まだ顔色の悪い相楽はうなずいた。
「うん。もうなんてないかな。帰り道気をつけなよって意味が、よく分かったよ。体で覚えました」
「汗かいたまま、エアコン全開で寝たでしょ」
「まあ、それもあるけどね。えりか。今日、どこかで二人きりになれないかな」
相楽は呟くように言った。柳岡は、そのトーンの意味深な響きに笑った。
「何それ? トイレ行く?」
「ううん、そんなんじゃなくて。浜梨くん家ぐらいの、鉄壁の場所で話したいの」
「あそこは鉄壁じゃないよ。お母さん、結構聞いてると思う」
柳岡が言うと、相楽は苦笑いで応じた。その澄ました横顔を見ながら、柳岡は思った。今は聞けないけど、二人きりになれるなら、わたしも聞きたいことがある。トランクに足された、倉神らしき人物の背中を押す人の絵。柳岡は、登校してきた天利が二日続けて冬服を着ていることに驚いたが、とりあえず目だけで挨拶をすると、相楽に言った。
「天利さんを見送ったら、話そう。夏服どうしたんだろ」
いつもとは反対の入口から浜梨が入ってきて、隣の席に座るなり鞄から下敷きを取りだした。
「あちーな」
「ずっといたの?」
柳岡は笑った。制服のくたびれ具合で分かる。朝の通学路を通ってきただけなら、もうちょっとパリッとしているはずだ。下敷きを机から取ると、柳岡は浜梨の横顔を扇いだ。
「たまにはサービスしますよ」
二十五分になって相楽が自席に戻り、宮下先生がチャイムよりはるか前に入ってきたのを見て、柳岡は悟った。今日は、退院した倉神が学校に来る日だ。ずっと空いていた倉神の席は、薄っすら埃を被るぐらいに誰も近寄らなかった。そうすることを、新たなリーダーのやなコン令嬢が許さなかったわけではない。ただ、誰もが見えない空気を共通認識に読み替えて、倉神の席の近くを通らないようにしていた。宮下先生に続いて倉神が入ってきたが、まだ教室の空気を守るように、木戸と古賀は目を逸らせている。倉神の顔色は、ほとんど真っ白に見えた。そしてその右手は、ギブスでぐるぐる巻き。相楽が、頭痛と戦うようなしかめ面でメールを打っている。その相手が自分に違いないと思っていた柳岡は、受信するのと同時にメールを読んだ。
『バレーちゃんの将来死んだね』
返信は思いつかないし、言葉で伝える気にもなれなかった。相楽は病み上がりでなければ、もっとひどい言葉を思いついただろう。柳岡が携帯電話を机の中にしまったとき、倉神が自席の椅子に左手を掛けて引いた。ひっかかったように机の脚が一緒に動き、鈍い音が鳴った。倉神は椅子の背を掴んで、もう一度引いた。少し椅子の角度が変わっただけで、机も同じように後ろへ下がった。隣の席から首を伸ばして、ぴったりに引かれた椅子の背と机の間が、透明に光っていることに気づいた古賀が、言った。
「くっついてる」
柳岡は、浜梨の方を向いてから、二人でほぼ同時に倉神の席の方へ視線を向けた。教卓に辿り着く手前の中途半端な場所で、宮下先生が言った。
「倉神さんは、怪我をしたんだぞ。誰だ?」
倉神はパニックになったように机から椅子を引き離そうとしたが、椅子は瞬間接着剤で接着された箇所を中心に頑なに動こうとせず、机の上に涙がぽたぽたと落ち始めたのを見て、相楽がその険しい顔を倉神に向けた。クラスの空気が少しずつ浮き立ち、自分の席に座ることを諦めた倉神はよろけるように机と机の間を歩きだすと、天利の前で跪いて、言った。
「ごめんなさい。今までごめんなさい! 許してください!」
天利の顔が真っ青になり、その目が大きく見開かれた。柳岡と相楽、浜梨を除く全員の目が、一斉に突き刺さった。天利は首を横に振りながら倉神を見下ろしていたが、宮下先生の視線が加わったとき、その顔を恐る恐る上げた。
「天利さん」
宮下先生が名前を呼んだとき、天利は倉神の体を押しのけるように立ち上がり、教室から飛び出していった。柳岡が立ち上がろうとしたとき、浜梨がその腕を掴んだ。
「追っかけたらダメだよ」
相楽が立ち上がると、へたり込んでいる倉神に肩を貸した。倉神が天利の席に腰かけるとき、その耳元に囁いた。
「そんな虫のいい話、ないからね」
教卓に自分の居場所を見つけたような宮下先生が、充分に息を整えてから言った。
「まずは、その椅子だ」
宮下先生と男子が数人がかりで、椅子を机から引きはがした。浜梨は苦い顔でその様子を眺めていたが、柳岡が下敷きを返すと、顔を扇ぎ始めた。ひと仕事終えた宮下先生が通り過ぎるとき、木戸が言った。
「先生、天利さんは……」
柳岡は耳を澄ませた。その答えは、はっきりと聞こえなかったけど、木戸の反応で分かった。おそらく『せんせー』は、放っておけと言ったんだろう。その方が楽なのだ。天利が、元の立ち位置に戻るだけの話なのだから。
それから休み時間から昼休みまで、宮下先生がクラスを離れることはなかった。相楽とトイレへ行っても、同じように逃れてきたクラスの人間が常にいて、メールでのやり取りに切り替えようと相楽に言っても、まずは二人になりたいと言って聞かなかった。
放課後になり、押さえが取れたバネのように、柳岡は相楽を連れて学校から飛び出した。これだけよく話す関係になったのに、天利は携帯電話を持っていないから、連絡の取りようがない。だから、探すならまずは自転車を取りに帰った方がいい。早足で歩いてコンビニの前まで来たとき、相楽は血の気が引いた顔を柳岡に向けると、周りに人がいないことを確認してから、言った。
「えりか、誤解しないでよ」
「何を?」
「言わなくても分かるよ」
相楽は、眉間を押さえて少し俯いた。
「私がやったんじゃないからね」
柳岡は、首を横に振った。
「そんなこと、疑ってない」
「じゃあ、何なの?」
相楽が呆れかえったように腕組みをしたとき、柳岡は言った。
「公園の向かいに、車が捨てられてるじゃない。あのトランクの絵は、相楽が描き足してるの?」
浜梨は、ロッカーの前で柳岡と相楽が待っていなかったことを不思議に思いながら、靴を履き替えた。それでも、急がなければならない。天利のことは連絡先も分からなければ、家も知らないのだ。校舎から出て、よく海が見渡せる場所を考えたとき、それがよく釣りをする海水浴場近くの岸壁だと気づいて、浜梨は走り始めた。鞄が四方八方に揺れ、中学校三年生のときに子供を抱えて線路からどかせた日のことが、頭に浮かんだ。
ゲートが開けっ放しになった階段を駆け下り、弓なりになった海岸線に目を凝らせたとき、目を向けたのとはまったく逆の方向に、天利が座っていることに気づいた。
「天利さん」