Hydra
「ちょっと、何してんの……!」
二人で顔を見合わせて笑い始めたとき、浜梨が帰ってきて、言った。
「俺の悪口だろ?」
「違うよ。褒めてたの」
柳岡は本当のことを言ったつもりだったが、それで鞄の話が始まったらまずいと思い、慌てて首を横に振った。
「浜梨はすごいなって 。わたしだったら、この部屋で眠れないよ」
夕方五時に解散し、柳岡は天利とバス停で別れた後、家に戻る道とは逆に歩いた。日課のようになってきた、トランクの絵の確認。夕日が照らす中、柳岡はトランクの前に立った。石から逃げる四人はそのままだったが、その下に新しく絵が増えていた。四角い穴を覗き込む人。その後ろにもうひとりいて、手を突き出している。柳岡は確信した。倉神は誤って落ちたのではない。誰かに押されたのだ。肝試しがあった日に、この絵はなかった。だから、偶然の一致じゃない。これを描いた人間は、少なくとも倉神が押されるところを見ている。
最寄りのバス停よりひとつ手前で降りたときは、五時半になっていた。これから山の中に入っていくバスは、集落の目の前で停まる。しかし、そこで乗り降りすることは許されていなかった。天利は鞄を肩にかけなおすと、曲がりくねった山道を歩き始めた。バスの排気ガスがもやのように残っていて、その煙の中をくぐっていると、歩くこと自体をやめたくなった。三人が住むのに広すぎる家は天利家が代々引き継いでいて、昔は裕福だったことが分かる、立派な造りだった。それも、この代で終わる。何より、天利家の大黒柱が出て行ったのだから。県外で働いているというのは、実際には出稼ぎのようなものだ。それが片道切符であることは、父と母の両方が同意していることのように思える。そうやって、天利家は再びゼロに戻ろうとしている。父が出て行き、存在意義を与えられたことのない娘が初めからいなかったように消えて、最後に広い家に残るのは母親。最寄りの停留所の少し手前にある安仲食堂に着くころには、太陽は完全に沈んでいた。安仲さんは、天利家のことを庇ってくれる唯一の『集落関係者』で、いつも、踏み込めるぎりぎりのところまで手を差し伸べてくれた。天利がのれんをくぐると、七十歳になったばかりの安仲さんが笑顔を見せた。
「おう、天利ちゃん。いつものでいいかな」
「お願いします」
天利が頼むのは、決まってほうれん草が入った温かい蕎麦だった。実際には二百円ではないが、安仲はそれ以上は受け取ろうとしない。用意されていたように出てきた温かい蕎麦を食べていると、安仲は細い呼吸を隠すように明後日の方向を向いて、言った。
「最近、明るくなったよ」
「そうですか」
天利は、安仲の背中に向かって答えた。他に客はいない。いても、この店の中で何かを言われたり、嫌な思いをすることはない。しかし、私が安仲食堂以外を頼れないのは、安仲がそう集落の人間と取り決めたから。これは、合意済の人助けなのだ。知っているのは、大人だけが共有しているはずのことが、母親の口を通じて聞こえてきたから。でも、こうやって知らない振りをして仲良くしていないと、温かい蕎麦は食べられなくなる。
「安仲さん、体調は大丈夫ですか?」
天利が言うと、安仲はうなずいたが、その背中は弱々しかった。
「大丈夫だよ。ただ、ちょっと深く息を吸えなくてね」
言葉以上の助け舟を出すこともできず、天利は蕎麦を食べ終えると、二百円を安仲の手に置いた。
「いつも、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
減点方式だから 、全てにおいて礼儀正しく。それは、天利が学校でも心掛けてきたことだった。今までなら無視されるだけで済んだが、倉神や、木戸と古賀の取り巻きコンビには通用しなかった。そんな中、柳岡はお昼を一緒に食べようと提案してきた。人と話す時間を得て、果たして明るくなったのだろうか。天利は立ち止まってカーブミラーに映る自分の顔を見上げたが、その自覚は全く生まれず、再び歩き始めた。石でできた橋のすぐ隣に建つ天利家は電気が点いておらず、開きっぱなしの玄関から入っても、静まり返っていた。居間から、テレビの光が雷のようにちかちかと漏れている。天利は鞄を廊下に置き、少しずつ高鳴る心臓を掴もうとするように、制服を握り込んだ。いつもなら言葉を交わすことはないが、今日はひとつだけ聞きたいことがある。テレビの光に打たれるように逆光になった、大きな猫背の背中。生まれるまで自分が一年近くこの中にいたなんて、信じられない。頭の中で渦巻く考えをどうにか抑え込み、天利は言った。
「お父さんの荷物、どこ?」
「二階。うるさい」
音が出ていないテレビの中で、お笑い芸人が笑い転げる。その視線は、まっすぐ天利に向いていた。あっさりと返ってきた答えから声を洗い落とそうとしたが、二階に上がって電気を点けるまで、その耳障りな声は残り続けた。天利は段ボール箱を探り、父親が鉄道の仕事で使っていた腰道具に触れた。箱ごと出すと、だらしなく開いた腰ベルトに囲まれるように、薪を割るための手斧と、半分残ったマルボロの煙草に百円ライターが二つ、縫い跡が斜めに走る空っぽの財布があった。その近くに紙袋が丸めてあり、天利はそれを開くと中身を手の上に落とした。シャックルが真っ二つに切断された南京錠。天利は段ボール箱を元に戻すと、南京錠を制服のポケットにしまいこみ、何もない部屋で大の字になった。
― 現在 ―
両親との関係は、大学卒業を機に修復された。大人同士になって話したとき、ふと悟ったのだ。会っていない内に知らないところで結び目がほどけていて、実は、わたし達は普通の三人家族だったのだと。直也も含めて四人でご飯を食べたときに、実感した。二十二歳になったわたしが、五年前はいかに掴みどころがなくて、どうやって声を掛けていいか分からない存在だと思われていたか。その反動として、大人になった姿はあまりにも常識的過ぎて無駄がなく見えたのだろう。直也は、わたしの高校時代をもちろん知らない。断片的に語ることはあるけど、ほとんどは一年生のときの思い出だ。美術部に入って、初めて相楽の描く静物画を目にしたときの、『すごい才能だな』という素直な感動。海水浴客のナンバープレートを控えすぎて、地名に詳しくなったこと。卒業式で、スピーチをするひとりに選ばれたこと。二年生のときのことは、一度も話したことがない。
『えりか、大人になったんだねえ』
電話で話していたとき、突然思い至ったように言う母の言葉には、涙が混じっていた。それは今までの心配の裏返しだったに違いない。わたしは、その言葉を思い出すたびに、自分は切り抜けたのだと言い聞かせてきた。十七歳のときに起きた全ては悪い事故なのだと。実際、その後の人生でも、あの一年間で目に焼きつけた以上の悪意は、見ていない。正確に言えば、始業式の日から、七月十四日まで。