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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Hydra

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 その笑顔を見ていると、プールの底に閉じ込められていたあの姿が、頭に浮かぶ。その反作用として今の笑顔があるのだとすれば、倉神が右手首を折るぐらい、なんてことはない気がする。
 放課後、相楽の真似をするようにロッカーの前に立っていると、浜梨がやってきて驚いた表情を浮かべた。柳岡は言った。
「今日、用事ある?」
「ないよ。どうしたの? 天利さん、こんちは」
 居心地悪そうに辺りを見回す天利は、申し訳程度に頭を下げた。柳岡がロッカーからどくと、浜梨は靴を履き替えて、言った。
「作戦会議? 席、隣なんだから、言ってくれたらいいのに。メールでも」
「聞かれたくないから。メールだって、読んだら声出すでしょ」
 柳岡は言い終わるなり、浜梨の背中をぽんと押した。天利と三人で海岸沿いの道を歩いていると、浜梨は言った。
「これ、また自宅コース?」
「かな? わたしが決めていい話じゃないけど」
 柳岡が言うと、浜梨は日光から顔を背けるように傾けながら、肩をすくめた。
「いいけど、居間は使えないよ 。お客さんが来てるから」
 天利は二人の顔を交互に見ていたが、柳岡と目が合ったときに掠れた声で言った。
「あ、あの」
「天利さん、俺はここ地元じゃないんだ。小学生のときに越してきたから。天利さんのことも話すけど、親は新しい友達としか思ってない」
 浜梨が言うと、天利は根負けしたようにうなずいた。浜梨が先頭に立ったとき、柳岡は天利に耳打ちした。
「浜梨の部屋さ。絶対、爆発したあとみたいになってるよ」
 運動公園へ向かう道を上がっていると、天利が空き地の方をちらりと見た。柳岡は何も言わなかったが、そこの鍵を巡って天利の父が職を失ったことを思い出した。それから数分も経たない内に浜梨家へ辿りつき、浜梨は二人を門の前で待たせて、家に入った。どたどたと足音がして戻って来ると、玄関のドアを開いて指で丸印を作った。玄関に上がった柳岡は浜梨の母に挨拶し、天利はそれを一字一句真似るように、何度も頭を下げた。
 浜梨が部屋に入る直前で立ち止まり、言った。
「ちょっと座れる場所を作るから、待ってて」
 締め切られた部屋の中で片付けが始まり、何かを投げるような音さえ聞こえてきたとき、
柳岡は思わず笑った。隣に立つ天利が口角を上げて笑ったとき、その子供っぽさの残る顔がどのように大人になっていくのか、まだ見えてもいない未来が覗いた気がした。
「天利さん、メイクはしないの?」
「メ……、なんですか?」
「化粧のことだよ」
 柳岡がそう言って笑うと、天利は笑いながら首を横に振った。
「それは、さすがに」
 そこで相槌を打つとしたら、それは相楽の役割だったが、今日はいない。柳岡はそこで止まった会話を笑顔でごまかしながら、思った。相楽がいないとペースが狂う。ちょうど校舎を出た辺りで届いた『明日は行けると思います』というメール。今は家でどうしているのだろう。
 部屋のドアが開かれ、額の汗をぬぐった浜梨が言った。
「お待たせ」
 柳岡と天利は、部屋に入った。窓から差し込む光の中で、埃が勢いよく踊っている。巻が飛び番になった漫画は端がめくれたり折れたりしていて、DVDは埃をかぶっているものとそうでないものが混ざっていた。
「カルチャーショック」
 柳岡が端的に言うと、浜梨は苦笑いを浮かべた。
「同い年だろ」
 三人でテーブルを囲んで座ると、柳岡は言った。
「肝試しの日、二人とも家にいた?」
「俺は、釣りで外に出てた」
 浜梨は、壁に掛けられたルアーを見上げた。天利が、浜梨に合わせるように、色とりどりのルアーを眺めながら言った。
「金曜の夜は、帰ってないです」
 日常の一部のような言い方に、柳岡は息が詰まるのを感じた。浜梨も少したじろぎ、天利は苦笑いを浮かべた。
「親が誰の顔も見たくないときは、家に入る前に分かるんですよね。そういうときは素直に諦めてます」
「朝に戻ったら、なんて言われるの?」
 柳岡が言うと、天利はそれすら自分の『日常』からかけ離れているように、首を傾げた。
「何も言われません。朝に、その日使えるお金が置いてあるんで、それでやりくりしてます」
「いくらぐらい?」
 浜梨が言い、その具体的な質問に、柳岡は心臓を掴まれたように感じた。しかし、天利は意に介さない様子で言った。
「五百円です。菓子パンが百円、飲み物が百円、夜はうちが唯一入れる食堂があるんで、そこで食べます。これが二百円ぐらいなんで、余った百円は貯金してます」
 その口調は淡々としていたが、『余った』と言うとき、天利は少しだけ顔を曇らせた。今まで散々、あだ名として使われてきたのだから、当然だろう。柳岡は、感情をコントロールしたまま話し続けられるか自信がなくなり、浜梨に言った。
「倉神さん、誤って落ちるような人かな」
 浜梨が首を傾げたとき、天利が呟いた。
「夜ですし、廃墟の中だから真っ暗だったと思います」
 浜梨から具体的な答えが返ってくることはなく、柳岡は言った。
「わたし、相楽とも話してたんだけど。天利さんには平穏な高校生活を送ってほしいと思ってて。誰にも邪魔されないように」
「助けてくれてありがとうございます。私……、学校にいるときは安心できるようになりました」
 天利が言ったとき、ドアがノックされ、浜梨の母が笑顔でアイスティーを三つ置くと、出て行った。それを飲んで、浜梨の部屋に置かれた漫画や、棚に押し込まれた小物を肴に盛り上がっていると、浜梨が立ち上がった。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
 天利と二人きりで残された柳岡は、浜梨が今まで座っていた場所の後ろに、折れ曲がった鞄が置いてあることに気づいた。
「天利さん、浜梨が人助けよくする人なの、知ってた?」
 空き地の近くで遊んでいた子供の凧が電線に引っかかる直前に、その手を離させた話と、線路脇でビー玉を拾っている子供を、電車に轢かれる寸前で突き飛ばして助けた話。その二つを柳岡から聞かされた天利は、目を大きく開いてその鞄を見た。
「これが、その飛ばされた鞄なんですか」
「うん。記念だよねー、わたしもとっとくと思う」
 柳岡は四つん這いのような恰好で鞄に近づくと、座り直して手に取った。天利がすぐ隣に来て、言った。
「あちこち折れてますね」
 柳岡はうなずいて、それが電車の車体と衝突する瞬間を想像しながら、顔より少し高く持ち上げた。
「これが、何十メートルも飛ばされたんだって。凄い衝撃だよね。腕をさ……」
 その先を言いかけたとき、鞄が手の中で崩れて、見当違いの場所にできた裂け目を中心にポケットの反対側が開いた。中で丸まっていたポリ袋が天利の頭の上に落ちて、ぽんと軽い音を鳴らした。
「痛っ。なんか出てきた」
 天利が敬語を使わず話したのは、初めてだった。笑顔で応じようとしたとき、柳岡は階段を上がって来る足音を聞いた。
「あっ、帰ってくる」
 一度開いた裂け目がどこか分からず、柳岡はその鞄をどうにかして元の形に戻し、くしゃくしゃに丸まった袋をぼうっと見つめる天利に言った。
「天利さん、それ隠さないと」
「えっ、はい!」
 天利は動転したように、それを柳岡の鞄に押し込んだ。その突拍子のない動きに、柳岡は笑った。
作品名:Hydra 作家名:オオサカタロウ