Hydra
柳岡の言葉に、二人は表情だけで『あら』という返答を作り、顔を見合わせた。柳岡は愛想笑いを返すと、パックのオレンジジュースを冷蔵庫から出して、洗い物が済んで裏返されたばかりのコップを手に取った。天利と話すようになって、まだ一週間も経っていない。なのに、その控えめな表情や静かな相槌は、しっかりと記憶に焼き付いている。
母が壁の時計を見上げた。
「何時ぐらいに帰ってくる?」
「十一時までには」
柳岡が適当に言うと、父が難題にぶつかったように喉を鳴らし、しばらくの沈黙の後、うなずいた。
「海開きは、まだだしな。今の内じゃないか」
コップをオレンジジュースで満たすと、柳岡は言った。
「行ってきます」
ジュースを飲み干して、綺麗に洗うと裏返しにした。さっきより水滴がついて瑞々しくなったグラスに、引き延ばされた自分の顔が映っている。こんな疲れたままの顔で花火に行くなんて、冗談もいいところだ。二階に上がり、Tシャツとジーンズに着替えると、柳岡は家から出て自転車に飛び乗った。あの公園まで、自転車なら十分程度。誰もいない、涼しい海沿いの国道を走っていると、波の音が真っ暗な海から聞こえてきて、それは何かを置きに来て、代わりに何かを連れて帰るような規則正しさだった。公園に上がる道を行き過ぎてUターンし、上り坂は自転車を押して上がると、柳岡は久々にブルーバードのトランクの前に立った。携帯電話のライトで照らすと、丸い爆弾と自分が描いたままの導火線が見えた。ライトを左に振ると、おかっぱホテルが見えた。柳岡は目を見開いた。記憶が混乱するぐらいに、描き足されている。
飛んでくる無数の石に逃げ惑う人間。四人いる。悲鳴を上げるだけの息が残っておらず、柳岡はよろけながら後ずさった。
「おかしいな………」
巻嶋の兄が呟いたとき、その声をいち早く捉えたのは鐘川だった。
「どうしたんですか?」
鐘川が近寄ったとき、特別室の入口にある引き戸が大きな音を立てて勢いよく閉まった。倉神が悲鳴を上げ、鐘川は飛びのいて体のバランスを崩し、尻餅をついた。巻嶋の兄は、自分の体を柱のように掴む妹に動きを封じられながら、懐中電灯で照らした。誰かいるのか? 他に車や自転車はなかったが、確実に誰かが来ている。
「おーい!」
少し大きめの声で言うと、その声は広い部屋の中にいびつに反響した。しばらく沈黙が流れた後、鐘川は耳を澄ませた。こつんと、何かがぶつかる音。小石が、垂れ下がった屋根をぱらぱらと滑り落ちてきて、ひとつが倉神に懐くようにふくはらぎを掠めていった。
「いこう、兄ちゃん。マジで」
巻嶋が、冷凍庫の中で凍らされたような声で言った。鐘川と倉神も気が済んだようにうなずき、巻嶋の兄が引き戸を開けて廊下に出るのに合わせて、後ろからついていった。突然、引き戸の上にひっかかっていた布切れが頭の上に落ちてきて、巻嶋兄妹をすっぽりと覆った。鐘川が布の足を踏んで転び、それに押された巻嶋の兄が手を前に出せずに壁にぶつかり、懐中電灯が割れた。倉神が悲鳴を上げ、鐘川が巻嶋兄妹を覆った布を死に物狂いではぎとると、二人の手を取って走り始めた。四人で階段を駆け下り、二階の大広間に辿り着いたとき、どこかで小石がこつんと音を立てて、その反響音が呻き声のように響いた。その音は、月明りのある方から聞こえていて、倉神はひとりだけ足を止めた。他の三人がわき目もふらずに螺旋階段を駆け下りていくのを見ながらも、頭はどこか醒めていて、ドアを失ったエレベーターが、再び気にかかり始めていた。どこからか落ちてくるただの小石にも、明確な目的があるようだ。まるで、自分たちを追い払いたいような。倉神はエレベーターの少し手前に立つと、小さなペンライトでエレベーターシャフトの中を照らした。小石が落ちてくる瞬間が見え、倉神はライトを消して駆け寄った。今上を照らせば、どこから小石が落ちてくるか分かるはずだ。少しだけ身を乗り出して顔を上げようとしたとき、身体が自分の意思とは関係なく、ぐらりと揺れた。人が掴むような形にできていない鉄骨から手が滑り、倉神はエレベーターシャフトの中へ落ちた。バランスを取ることもできないままカゴの上に身体が着地するとき、水気を含んだ音を立てて、右手首の橈骨が真っ二つに折れた。
月曜日、警察も交えた第三者の目線で、宮下先生の口から肝試しの顛末が語られた。昼からの全校集会でも注意喚起があるが、倉神は水曜日まで入院し、バレーは休部する。興味本位だからといって、危ないことをすれば取り返しのつかない怪我につながる。宮下先生はそう締めくくった。鐘川と巻嶋は、日曜日の親を含めた三者面談で魂を抜かれたようになっており、それはどんな心霊現象よりも効いたようだった。宮下先生が出て行き、一限目が始まるまでの数分の空白時間がやってきたとき、浜梨が言った。
「大丈夫?」
「わたし? うん」
柳岡はかろうじてそれだけ答え、クラスの中に生まれた新たな力関係を意識した。身勝手な倉神に対する反対勢力として生まれた、柳岡と相楽の二人。しかし、その相手が勝手にいなくなってしまった。
「倉神さん、バレーどうすんのかな」
柳岡が言うと、浜梨は首を傾げた。
「手首って言ってたから、厳しいんじゃない」
浜梨の言葉に、柳岡は目を伏せた。今日に限って相楽が休んでいるというのも、気にかかった。体調不良なんて、いつだってあり得る話だ。今でも、相楽は体が強い方ではない。しかし、相楽はあの四人が肝試しに向かう途中で顔を合わせている。倉神は、本人が警察に言ったところによると、エレベータホールを覗き込んだときにバランスを崩して転落したらしい。相楽がおかっぱホテルにわざわざ行って、何かいたずらを仕掛けるだろうか。以前ならそんなわけないと否定できたことでも、最近はよく分からなくなっている。トランクに描かれた、四人が逃げ惑う絵。あれを描いた張本人なのか相楽に聞きたいが、『今日は体調不良なので一日寝ています』という連絡が先に来てしまったから、聞きづらい。そう思いながら無意識に視線を上げたが、天利は相変わらず背を向けて座っているから、その表情は分からなかった。
昼休みになり、天利は浮かない表情で言った。
「霊って、そんなに見たいものですか」
柳岡は、首を傾げた。
「いや、見たくはないかな。いてくれていいんだけど、怖がらせないでねって思う」
「出くわさなければ、お互い平和でいられますよね」
天利が言い、柳岡は笑った。最近は会話のキャッチボールが成り立つ。妙な敬語だけは抜けることがなかったが、これは天利が厳格に設けているラインらしく、他の生徒から見て『変わった』と思われないための配慮かもしれないと、柳岡は勝手に結論付けていた。
「天利さん、今日の放課後はさ。ちょっと浜梨も入れて、作戦会議しない?」
「何のですか?」
「わたし達が、今後も学園生活を平和に送るための作戦会議。門限厳しい?」
その言葉の反応を見るのは怖かったが、柳岡が見ている前で、天利の表情はゆっくりと笑顔に変わっていった。
「門限は大丈夫です。ありがとうございます」