Hydra
添付されている写真には、微妙な笑顔の鐘川と巻嶋。そして、何も知らない様子で作り笑いを浮かべる巻嶋の兄。倉神の姿はない。柳岡は送るつもりだった本文を全て消すと、相楽の電話を鳴らした。すぐに出たが、自転車を漕いでいるらしく、風の音が混じっていた。
「相楽、一緒に行くとかじゃないよね?」
「行くわけないでしょ。倉神さん待ってるんだって」
「どうやって見つけたの? 勘?」
「集まる場所って、ひとつしかないじゃん。買い物ついでに寄っただけだよ。気を付けてねって言っといた」
相楽が言っているのは、釣り用品店の隣にある広いコンクリートの空き地。夏の終わりに花火をする子供でにぎわう場所だ。そこから山に向かって車で数分走れば、おかっぱホテルがある。ただ、相楽の家からはかなり遠い。もちろん、相手が弱って死ぬまで寸止めのパンチを繰り出さないと気が済まない性格なら、話は別。
「なんて言ってた?」
「私に? 帰り道、暗いから気を付けてねって言われたよ。どういう意味だろうね」
相楽は面白がるように言った。柳岡は小さくため息をついた。
「そのままだと思うよ。マジで気を付けてね。じゃ」
柳岡は電話を切ったとき、ふと気になって宙を仰いだ。あのトランクの絵を最後に見たときは、おかっぱホテルが足されていた。そこから、二週間ぐらい経っている。最近は天利のことや、自分の賞のことで頭がいっぱいだった。
今は、どうなっているんだろう。
おかっぱホテルの入口は、爆発で吹き飛ばされたみたいに開いていて、二階の窓は枠が曲がって乱杭歯のようにいびつだ。巻嶋の兄が懐中電灯のスイッチを入れると、真っ黒な口のように見えたエントランスに、角張った『川原観光協会』の文字が浮かび上がった。鐘川が首をすくめながらも、中に入るのが待ちきれない様子で言った。
「すごい。やっぱここ怖い」
さっきまで木々をなびかせていた風はすっかり止んで、今はその名残で垂れ下がったトタンが、草木の下手な物まねをするように、ゆっくりと揺れている。巻嶋は懐中電灯のスイッチを入れて点くことを確認すると、すぐに消してリュックサックのサイドポケットに戻した。倉神は、野球帽を浅く被りなおして、巻嶋に言った。
「巻嶋さん、去年見たんだっけ?」
「うん」
巻嶋はうなずき、仕舞ったばかりの懐中電灯に触れた。去年の夏は、エレベーターホールの中を細い布のようなものがひらひらと落ちていくのが見えた。入れ違いに後から来たグループが、建物中に響く叫び声を上げ、『なんかいた!』と言いながら転げるように飛び出してきたのも覚えている。
倉神も来るのは二回目だったが、前は入口で怖気づき、足が言うことを聞かなかった。入口の形は頭が覚えているからか、最初に見たときほどの迫力は感じられず、気になったのはその先にある真っ暗なロビーと、うっすら見える螺旋状の階段だった。巻嶋の兄が先頭になって足を踏み入れ、散ったガラス片をばりばりと踏みながらロビーへ上がった。螺旋状の階段は緩やかなカーブを描きながら二階まで続き、その先は真っ暗な廊下に向かい合わせの形で客室が並ぶ。木をゆっくりと踏みしめるような、ぎりぎりと軋む音が鳴ったとき、その方向が自分たちの足元からではないことに気づいて、鐘川は足を止めた。懐中電灯の光を天井に振ったとき、蝙蝠が数匹真っ黒な羽根を広げて飛び去った。巻嶋が悲鳴を上げ、家で聞き慣れているはずの兄も肩をびくりと震わせた。
目的地は最上階の四階にある『特別室』で、おかっぱホテルの由来にもなった、めくれて垂れ下がった屋根の真下にある。その部屋の中央には、熊のぬいぐるみが寝かされている。あちこちほつれ、片目は飛び出して口元まで垂れ下がった無残な顔をしているから、夜に見れば、その見た目はとりわけ恐ろしい。これに触って帰ってくるのが、肝試しのゴール。巻嶋の兄は、心霊現象自体は全く信じていなかったが、子供のころから夏になると懲りずにホラー映画を見て、兄の傍から離れられなくなる妹のことを可愛く思っていた。『そんなに怖いなら見るなよ』と言えば、それはそれで寂しがる。だから、先週の昼間にバイトで近くを通ったとき、ひとりで入り込んで、熊のぬいぐるみに仕掛けをした。妹を怖がらせるためのアイテムは、ぬいぐるみの首に巻き付けられた、六つだけ珠が残った数珠。しかし今となっては、その手間は無駄に終わる可能性が高かった。二人が学校から指導を受けて身動きが取れなくなり、実際に集まったのは四人だったから、六つ珠が残っている意味は、なくなってしまった。
鐘川は螺旋階段の段に足を乗せて、二階へ懐中電灯の光を向けた。四人で二階に上がり、倉神は周囲を見回した。廊下は真っ暗だが、反対側は吹きさらしになった宴会場の窓から月明りが差し込んでいて少しだけ明るく、ドアが外れたままになったエレベーターホールが見えた。カゴは一階にあり、身を乗り出して覗き込むと、天井が見える。
「倉神さん、大丈夫?」
魅入られたようにエレベーターの方を見つめる倉神に、巻嶋が言った。倉神はうなずくと、他の三人に合わせて、三階へ上がる階段をついていった。真っ暗な中では、ありとあらゆるものが生きて見える。それでも、四階まで上がったときには暗闇に慣れて、特別室の真ん中に寝かされた熊のぬいぐるみにも、さほど驚かなくなっていた。鐘川と巻嶋は手を取り合って、一度ぬいぐるみに触れた後は、緊張が抜けたように笑顔で顔を見合わせた。巻嶋の兄は、熊のぬいぐるみを裏返した。今のところ、誰も首に巻かれた数珠には気づいていない。それを首から抜いたとき、月明りに照らされる数珠の珠が、四つしかないことに気づいた。
柳岡が一階に下りると、両親がテレビを見ていて、足音で母が振り返った。
「えりか?」
「あのさ、相楽さんに花火誘われたんだけど。ちょっと出てくる」
柳岡は即興で嘘を考え付いて、そのまま口に出した。父が振り返った。
「こんな時間に? まあ、花火は夜するものか」
二人は、機械仕掛けのようにテレビへ戻った。許可は出ていない。ただ、花火というのは一般的に夜に行われるという共通認識が生まれただけ。
「えりか、もう出るの?」
母が振り返った。父が同じように、顔を向けて言った。
「この時間から、本当に行くのか?」
どこまでも噛み合わない。柳岡が小さくうなずくと、母が言った。
「最近、天利さんと仲良くしてるの?」
そのひと言で、理由も分からず頭に血が上った気がした。それが何なんだろう。柳岡が言い返す言葉を考え始めたとき、父が言った。
「あの家には、不運が続きすぎた。天利さんは、学校ではうまくやっているのか?」
母が、弁解するような口調で言葉を継いだ。
「名簿を見るまで、同じクラスとは気づかなかったの」
柳岡は何も言い返せずに、二人の顔を代わる代わる見た。宇宙人と初めて会話が成立したような、不思議な感覚。絶対に手が届かない場所に、指先が引っかかったような。
「うん、最近は仲良くしてるよ」
柳岡が言うと、父が安心したように小さく息をついた。
「花火には、来るのか?」
「来ないよ」