元禄浪漫紀行(29)~(33)
俺が家の戸を開けて中を窺うと、おかねさんは髪の毛をまた綺麗に結い直しているところだった。
俺は何も言えず、なるべく音を立てないように静かに畳に上がって、外ももう真っ暗なので、行灯に注ぎ足す油が足りているかの確認をしていた。何かしていないと落ち着かなかった。
「お前さん、あの子に襲われたんだってね」
そう言われた途端、俺の体は動かなくなった。そして、蘇る光景に、背中がぴりぴりと震えだす。
どうやったのかはわからないけど、おかねさんは、お糸さんから俺たちの事情を聞き出してしまったらしい。俺はどう説明しようかと思うと、嫌々ながらも、昼間のことを思い出さずにはいられなかった。
俺は確かに、今日の昼に、父親の源さんが居ない、お糸さんの家を訪れた。
「お招きに上がりまして…見せたいものとはなんでしょう?」
源さんの家の戸を閉めてそう聞いた途端、なんと、お糸さんは黙ったままでやにわに服を脱ぎだして、急いで脇を見た俺の襟をつかみ、引き寄せたのだ。
もちろんお糸さんの手からはすぐに逃げられたけど、正直に言うと俺は恐ろしくてたまらず、二、三発引っぱたかれた方がまだマシだと思った。
現代人である俺にとってみれば、恋人同士でもないのに会っていきなり服を脱ぎだす女性なんて、恐怖でしかない。皆さまもそれはわかってくれると思う。
「あ、あの…でも、何もありませんでしたし…」
なぜ俺がお糸さんのしたことをわざと小さく言わなければいけないのか。俺だって怖かったのに。
でもなんとなく、“おかねさんがこれ以上嫉妬に狂ったら大変なことになる”と思っていた。事実、すでに大変なことが起きているのだし。
するとおかねさんは髪を結い終わって振り向き、俺にびしっと指をさした。
「何考えてんだいお前さんは!娘が一人きりの家を男がたずねるなんて!正気かい!ちったぁわきまえな!」
「は、はい!すみませんでした!」
反射的に頭を下げてしまったけど、これは俺が悪いのだろうか。俺は江戸の娘がどんなふうに恋をするのかなんて知らなかったし、お糸さんは俺に騙し討ちを食わせたのだから。
いや、でもやはり、男たるもの男女の距離に自ら節度を…うーん。わからない。
「ああもう!飯が冷めちまったじゃないか!何してんだい!食うんだよ!」
「はい!」
“外面如菩薩内心如夜叉”(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)
これはお釈迦様がおっしゃられた、“女性とはこういうものである”という説明だ。
“姿は菩薩のようだが、心に夜叉が巣食う”
いや、俺がそう思っているということではない。
お糸さんの髪を引っ張っているおかねさんは、頭に角が生えていてもおかしくない顔をしていた。
“「江戸っ子」を張る女性は、そうそう夜叉をしまってはおけない、ということなのだろうか”
俺は、冷めて固くなったがんもどきをもそもそと食べながら、ずっとおかねさんの様子を窺っていた。
作品名:元禄浪漫紀行(29)~(33) 作家名:桐生甘太郎