元禄浪漫紀行(12)~(20)
第十四話 彼女に知れた嘘
俺は悩みを抱えていた。もちろん、おかねさんのこともある。ただ、俺の母親は病気を抱えていた。だから、「もしかしたら小説家の道は諦めて、これから介護をしなくちゃいけないかな」と、考えていたところを、俺は江戸時代に飛ばされてしまったのだ。
それにしても、あのお香は一体何者、というか、どういったものだったんだろうか。
「母さん…」
俺はその時井戸で水を汲んだところで、井戸端に誰も居ないと思っていたから、そんなふうに独り言で母さんを呼んだ。
その日もおかねさんはお弟子に稽古をつけ、俺は次々訪れる彼らにお茶や干し芋を差し出したり、合間に洗濯をしたりした。
俺はおかねさんの言う通りに「如才なく」していたと思うので、なかなかお弟子たちからも評判は良かった。とりわけ栄さんからは、付き合いが一番古いと言われて可愛がられ、「秋兵衛さん、今度一緒に遊びへ行かねえかい。中へさ」なんてからかわれたりもした。
「「中」とはなんのことですか」と俺が聞いた時、栄さんは突然大笑いを始め、「師匠!こりゃあ確かに御大尽ですぜ!まいったなこりゃあ」と言っていた。
栄さんも、残りのお弟子もみんな稽古が済んでしまってから、おかねさんは俺を火鉢のそばへ呼んだ。
「なんでしょうか、おかねさん」
おかねさんはこめかみに手を当てて軽く首を振り、俺をちろっと横目で見た。それはなんだか呆れているように見えたので、俺は「何かまずいことをしたかな」と思って焦った。
「今日栄さんに、中へ誘われたね」
俺はそう言われて、“ああ、そういえば「中」とはなんだろうな”と、疑問を思い出したけど、その時のおかねさんがどうやら怒っているように見えたので、聞く気になれなかった。そして、その必要もなかった。
おかねさんは、俺と彼女の真ん中にある、何も乗っていないちゃぶ台を見つめて、大きくため息を吐く。そして、まるで汚らわしいものでも見るように、表の戸を見た。
「ああいう札付きとうちの下男が同じ場所で遊ぶなんざ、もってのほかさ。それになんだい?「中へ行こう」だなんて。フン。女が相手にしてくれる面でもないくせに気取ってさ。お前さん、吉原へなんか出入りしちゃならないよ。そんなことをしたら、うちへは置かないからね!」
おかねさんがそう言い切った時、俺は「中」とは「吉原の遊郭」を指すのだと知った。それから、おかねさんがそれほどまでに吉原を嫌っているらしいことから、女性の苦労というものを考え、最後に少しだけ、ほんの少しだけだけど、おかねさんが俺に「ダメだ」と言ってくれたのが嬉しかった。
もちろんそれは、自分の下男である俺に良くない遊びをさせるつもりはない、ということでしかないんだろうけど…。
作品名:元禄浪漫紀行(12)~(20) 作家名:桐生甘太郎