元禄浪漫紀行(12)~(20)
そのあとおかねさんが家に帰ってきたので、俺はお茶を入れたりしながら、「いいものはありましたか」と聞いた。
「ああ。なかなかちょっと手に入らないものがあったよ。お前さん、聴いてみるかい」
「ええ。違いはわからないかもしれないですが、聴いてみたいです」
「じゃあちょっとやってみよう。お待ち、今音締めを…」
「ありがとうございます」
俺は正座をして姿勢を正し、おかねさんはきりっと三味線の弦を引くと、新しい撥をちょっと手になじませるように何度か握り込む。そしてひたむきに目を伏せて、大きく息を吸った。
ちん、ちり、ちん…
三味線の音は、力強いのに、とても艶がある。俺はそう思う。
「あねぇ、え、さま、をぉ~」
何かの唄の一節だったのか、おかねさんは“春風師匠”になってそう語った。おなかから声を出すと、それは潤った喉を通って凛とした響きになる。
ろくに聴いたこともない歌い方なのに、昔懐かしい気がして、どこか憂いを帯びたような声は、俺の心に沁みたような気がした。
そのあとも唄は続き、音が途切れると、おかねさんは惚れ惚れとしたような顔で、三味線を撫でる。
ああ、ほんとに三味線が好きなんだろうなあ。
「綺麗な音ですね。お声も素敵です」
俺がそう言うと、おかねさんは上目がちに俺を見て、何も言わずにふふふと笑った。内緒ごとを一緒に楽しんでいるようなその空気に、俺の胸はどこか苦しくなった。
昼からお稽古に来るお弟子さんが何人か居て、夕飯を食べたあとはおかねさんは仕事は休み。そんな時は、二人で話をしたり、買い物に行ったりした。それに、たまにはお休みも欲しいと言って、まるで稽古のない日もあり、その時はおかねさんは遊びに出るのに俺を連れて歩いたりした。
ある休みの日、おかねさんが念入りにお化粧をしているので、俺はそれに気づいて、「お出かけですか」と聞いた。
「ああ、これから弁天様へ行くのさ」
おかねさんは、小さな唇に紅差し指でちょいちょいと紅を乗せながら、そう答えた。
「弁天様?おかねさんは弁天様を信仰しているんですか?」
そう言うと、おかねさんは怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「なんだい改まって。当たり前じゃないの。あたしは三味の師匠だよ。鳴り物を扱うのに、弁天様を拝まないでどうするのさ」
あ、そういえば、弁天様は音楽の神様だって聞いたことがあるような気がするな。へえ、やっぱり昔の人って信心深いんだなあ。
「そうでしたね。お気をつけて行ってきてください」
「はいはい。じゃあ不忍弁天だから帰りは夕になるよ。おかずを買って帰るから、お米を炊いていておくれね」
「はい」
おかねさんが出かけて行ってしまってから、俺はお茶を入れ、静かに江戸の町の音を聴いていた。
表通りの雑踏、納豆売りの声、男同士の喧嘩、赤ん坊の泣き声。
なんとも騒がしくて、「はじめはこれに慣れるのに苦労したっけなあ」などと思い返す。
俺は、元居た時代に帰る方法を知らない。多分、探したところで見つからないだろう。そして、もう一度思い出す。
父さん、母さん、数人の友達、お世話になった人たち。その人たちを置き去って、俺はもう帰ることのできない場所へ、たった一人で連れてこられてしまったこと。
さびしくないわけじゃないし、今でも帰りたい。でも、そう思うたびに、おかねさんの言葉が耳によみがえるのだ。
俺が「何もおぼえていない」と言った時。
“それじゃあ心細いだろうに。安心おしよ、お前さんはちゃんとあたしが面倒見るからさ”
彼女は俺のことを本当に気の毒と思って、気をもんでいるような顔でそう言った。
俺は自分の湯飲みを傾けながら、お茶の温かさが手に伝わってくるのを感じて、ゆるく息を吐いた。
作品名:元禄浪漫紀行(12)~(20) 作家名:桐生甘太郎