元禄浪漫紀行(12)~(20)
第十九話 二分と正直
火鉢の中の炭が、時折ぽっと火の粉を飛ばす。行灯は目に優しい。でもその日は、灯りのとぼしさがなんだかもの悲しかった。
「あたしはね…十五で親が死んで、嫁に行く縁もなかったのさ。そこへ女衒が寄ってきてね、自棄っぱち半分に、吉原に行ったのさ。女郎になったんだよ」
俺はもう大体の江戸の事情を知っていたので、「女郎」というのがどういう人たちなのかは、話に聞いていくらかは知っていた。
女衒(ぜげん)に声を掛けられて花街に入る女性や、借金の形に売られてくる人は、実は少ない。大半が、何か罪を犯してその穴埋めのように身を沈める女性たち、または、「口減し」のために地方から出てくる子供たちなのだ。
遊女たちは日々の暮らしに飽き飽きして、嫌々ながらも男の機嫌を取り、「早く年が明けないか」と待ちながら、起請文(きしょうもん)を交わした相手と手紙をやり取りしたりする。耐えきれずに逃亡を決意する女性も居るけど、店を取り仕切る“忘八(ぼうはち)”の手下たちが常に見張っている廓を抜けるなど、到底無理な話だった。捕まえて連れ戻されれば働く年を増やされて、そのうちに病気で亡くなったり、首をくくったり。
よし出てこられたとしても、もしそれが子供の頃から吉原に居た女性だとしたら、外での暮らし方がわからず、結局私娼として生き、短い生涯を閉じる。そんなことさえある。
おかねさんはそれを嫌と言うほど見て知っていたから、俺に「吉原へ行ったら承知しない」と言ったのだ。
「あたしはもちろん太夫なんて呼ばれず、“散茶(さんちゃ)”として大して銭もないお客を取って、年が明けるまでの間だけ勤めるはずだったんだよ…それがねえ…」
そこでおかねさんは遠い昔を思い出しているのか、くすっと笑ってから、火鉢の端に肘をつき、炭を火箸でちょいちょいとつついていた。
「ある晩に出たお客がね、わりに正直なほうで、下手な洒落も言えたもんで、あたしも気に入ってさ」
おかねさんはずっと俺のほうを見ず、まるで火鉢の中に恋人の顔を見ているように、赤々と燃える炭を覗き込んでいた。
「やさしいひとだったんだよ。しばらく来ないと思ってたら、あたしの店にそのひとの仲間が来たから、廊下でとっ捕まえて聞いたらさ…」
そこで彼女の顔はくしゃっと歪み、彼女は慌てて右手の袖を目頭に当て、涙を拭った。そしてしばらく袖口を目に押し当てていたけど、腕を下した時には、眉を寄せたまま笑っていた。
「二分さ…」
おかねさんは、「二分(にぶ)」と言ったまま続きを話さなかった。そこで俺は慎重に構えながら、「二分とは…なんですか?」と、できるだけ丁寧に聞いた。
“聞いてもよかったのだろうか。いや、よくない。彼女は話すことさえ辛いのだ”と俺は考えていた。
涙を堪え、歯を食いしばっておかねさんは、その歯の隙間から声を出す。
「たった二分の…出入り先への借りが返せないってんで…首をくくったのさ…そのお店と、あたしへの遺書を残してね…」
それは悲しみであり、恨みでもあり、あまりに正直過ぎた恋人に対する哀れみであったのだろう。
それからおかねさんは額に手を当ててため息を吐くと、またちょっと笑った。そして、そこで初めて俺を見る。
「たった二分さ。それでときに死んじまうんだよ。人ってもんはさ」
俺は、おかねさんがこれを無理に笑いたがっていることを、止めたかった。泣いてわめいてでもいいから、どうにか彼女の悲しみをほかへやって欲しかった。
でも、彼女のような人には、それはできないだろう。
おかねさんはお師匠としての誇りはあるが、同時に、下男の俺にさえあれこれと世話を焼いて、いい主人であろうとする。そんな彼女に、その下男の前で泣いてみせろなんて、無理な話だ。
「だからさっきね…」
俺は、つい先ほどにおかねさんが甚吉さんにお金をぶつけたことを思い出す。
「銭なんてのぁ、あたしゃきらいなんだよ。欲しい奴がいたら、全部やっちまいたいくらいさ。あたしの銭に、もう用はないんだ…」
おかねさんの言ったことの意味は、俺にはこう聴こえた。
“あの時に恋人を救えもしなかった自分が持っているお金になんて、もう用はない”
俺は、自分にできることを数え上げ、その少なさに嘆息して、何を言うこともできなかった。
作品名:元禄浪漫紀行(12)~(20) 作家名:桐生甘太郎