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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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元禄浪漫紀行(12)~(20)

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俺は、だんだんと神田の町に慣れていった。いつも忙しそうに職人たちが怒鳴りあっている鍛冶町あたりはあまり行き来しないにしても、おかねさんの気に入っているおかずを売っている煮売屋、立ち飲みもできるから一緒に出かけたりする酒屋、茶店や荒物屋などでも、ご店主と親しくしてもらっていた。そんなある日、あの囁きを聴いたのだ。

「ねえねえ、あの人。おかねさんとこの下男だろう?」

俺が煮売屋台で焼き豆腐を受け取ってから来た道を戻りかけると、さっき居た屋台からそんな囁きが聴こえてきた。俺はそれを聞いて、“腕の良い師匠を持つと、下男まで噂をされるのかな”と、ちょっと得意に思っていた。てっきりそうだとばかり思っていたんだ。

「ああそうだよ。「中」へいた時分に身に着けた芸しか頼るもんもない、かわいそうな人さね」

その女の人の声は、気の毒そうに、おかねさんを軽蔑した。






俺は、家に帰るまでに「考え」をまとめ終わって、またなんともない顔でおかねさんに「ただいま帰りました」と言いたかった。彼女を、今までと同じように見るために。

でもそれはできそうになくて、噂話なんかしていた女の人に対する怒りなのか、おかねさんを見る俺の悲しみなのかわからない思いで、彼女のことを考えた。


そうか。おかねさんがあんなにきつく俺が吉原に行くのを止めたのは。

「二世も三世も」と言い交わして別れ別れになってしまった男性と出会ったのも、おそらく。

そして、彼女が三味線のこと以外は疎いようで、派手を好むように見えたのも。


そこまで考えて、俺は自分を平手で張り飛ばしたくなった。そんなふうに彼女を自分勝手に判断したくなかったから。

でも俺はもう一度、彼女の身になって考えようとした。



彼女が…彼女がそんなふうに苦労をしたからなんだ。

おそらくは「十五で親が死んでから」、生きていくために仕方なく入った街で愛しい人に出会い、そして別れることになって。

やっと外へ出られたからといって、もう恋は叶わず、それでも彼女は自分の力で生きていこうとしているんだ。

俺はもう、裏長屋の木戸の前に着いていた。そしてそこで一旦立ち止まる。


どうして俺はすべて憶測で考えているんだ?なんでそれで彼女を見る目を変えなきゃいけないと感じているんだ?

そうだ、彼女が傷ついていると思っているからだ。でもそれは果たして本当だろうか?

いいや、でもおかねさんだって、あんなふうに噂されていることは承知で、歯を食いしばっているかもしれないんだ。

そうだ!俺はおかねさんの下男じゃないか!主人の生きる支えになるんだ!それでいい!それでいいんだ!




「どうしたいお前さん、幽霊でも見たような顔して」


俺が帰った時、おかねさんは寒そうにねんねこを重ねて、小さな炬燵に足を入れ、手あぶり火鉢に両手をかざしていた。

さっきまで俺は必死に彼女が耐えてきたことを考えていたから、彼女が今凍えているのが、まるでその苦労からのような気になって、泣きそうになってしまった。だからつい、“俺は安っぽい同情などで彼女の必死の一生を見ようとしているのか”と、自分を軽蔑しかけた。

俺は何も言わず、家の中に入ってぴたりと戸を閉めると、炬燵に近寄って彼女の手を握る。


俺は違う。

俺はあんなことを言ったりしないし、彼女の過去を吐き捨てたりしない。俺はそんなふうに気持ちが逸るまま、驚いているおかねさんの手を、ちょっと自分の方に引いた。


「おかねさん、わたくしは、何があろうとあなたの下男です。助けて頂いたご恩返しになるのでしたら、なんでもいたします」

「なんだい急に。何かあったのかい?」

「い、いえ、ただちょっと、その…」


俺は先を言い淀んだ。そしてそれは、「口では言えないことを外で聞いてきた」と彼女に向かって言ったのと、同じことだったのだろう。

彼女は即座に俺の手を振り払い、一瞬俺を睨みつけかけたが、くるりと俺に背を向けると、長いことずっとこちらを向かなかった。

俺は、「黙って彼女のそばに居れば良かっただけなのだ」と、自分を責めて下を向いていた。


馬鹿野郎。そう自分に言い続けた。