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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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元禄浪漫紀行(12)~(20)

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第十七話 祈り






冬の真っただ中だった。その朝はやけに寒く、「もしや」と思って、俺は朝の用事をあらかた片付けてから、おかねさんに「本郷の富士見坂まではどのくらいかかりますか?」と聞いてみた。

ところがおかねさんは、「なんだいそりゃ。本郷にそんな坂があるのかい?」と言ったのだ。俺はそれでちょっと驚いた。

おかしいな。本郷の富士見坂と言えば、歌川広重だって浮世絵に描いているくらいに、江戸の名所のはずなのに。あれ?でも確か…。

そうだ!広重は確かに江戸時代の浮世絵師だけど、江戸後期の人じゃないか!この時代には、生まれてすらいないかもしれない!

ってことは…富士見坂もまだ名前が付いていないかもしれないぞ?えっと、なんとかごまかさなくちゃ…。

「あ、いえ、この間栄さんから、「よく富士山の見える坂がある」と聞きまして、こんなに空気の澄んだ朝でしたら、とくによく見えるかと…」

俺がそう言うと、おかねさんは自分で結い直していた長い髪をちょっと持ち上げて、俺を振り向いた。

その時、彼女の白いうなじの横には長い黒髪が気だるげに垂れ下がり、なんとも艶っぽかった。そして振り向いた肩から腰までの曲線は彼女の細い体をいっそう頼りなく見せていて、少し後ろに抜いた衿から白い素肌がちらと見え、美しかった。それは、華やかさを演出したものでないからこそ、彼女が元々持っている美をさり気なく教えているようだった。

浮世絵にして「見返り髪結い」とか名前を付けたくなりそうだ。

「ああ、それなら確か、こっちから芋洗橋を渡るとすぐに見えるよ」

「い、芋洗い橋?」

「ああ、芋洗稲荷があるからねえ」

「はあ、そうなんですねえ」

俺は本郷まで行こうとしていたのに、そんなに近くで見られるとのことで、ちょっと拍子抜けした。もしかして、この頃ってほとんどどこでも見えたようなもんなのか?得な時代かもなぁ…。

まあ、じゃあ言う通りにしてみよう。

「ありがとうございます。では、半刻ほど、富士を見に行ってもいいですか…?」

すると、おかねさんはくるくるっと丸めて輪のようにした細い後ろ髪を束ねて元結で留め、そこへいつか買った鼈甲の櫛を何気なく刺した。

「あたしも行くよ」

そう言って振り向いた彼女に、俺は笑顔で「ありがとうございます」と返してみせようとした。でも、どうしてもうつむいてしまって、頭を下げるつもりだった振りをした。






東京には、今でも「富士見坂」という名前がいくつも残っている。それは、過去に本当にそこから富士山がよく見えたからなのだ。

俺が平成を生きていた頃、ちょっと史跡巡りに凝っていた時があった。その時に「富士見坂」も調べて歩いたけど、本郷の富士見坂からは、乱立した建物に埋め尽くされた景色しか見えず、少し落胆したのを覚えている。

もちろん、今向かっているのは本郷ではないし、正直、ちゃんとした富士山が見えるのかは不安だ。遠くに霞んでぽっつり見えるだけ、かもな…。

でも…とにかく見えるは見えるはずだ!

俺たちがむかっているのは、俺の感覚だと、どうも秋葉原の端っこにある万世橋なんじゃないかと思っていた。いや、違うかもしれないけど。

でもなんだか、平成や令和にはないはずの場所に橋が架かっていたり、逆のこともあったりして、俺はたまに困ったりする。まあでも、二百年以上経っていたんだから、そうなるのは仕方ないか。





「うわあ、本当によく見える…」

人々が忙しなく往来する坂を登り切る前から、それは顔を出していた。

俺は、雪の絶えない頂きに白帽子をかぶり、青い山肌を堂々と広げている富士山が遠くに見える様子に、“本当に同じ国にある、日本一の山なんだな”と実感した。

江戸時代の富士山は、実際に行くことが難しいほど「遠い」のだ。それなのに、こんなによく見える。途中にはもちろん間を遮る山脈はあるけど、むしろそれを頭二つ飛び越えて軽々とこちらに向いている富士の大きさは、遠くから見るほど尊いものかもしれない。

江戸の浮世絵師がこぞって富士山を描きたくなるわけもわかる気がした。

「ああ、ありがたいねえ、ほんとにさ。ほら、手を合わせてごらんよ」

「あ、ああ、はい」

おかねさんは富士山に向かって手を合わせて拝みだす。

そういえば、富士山は日本一の霊山でもあったっけ。そりゃ、こんなに大きくちゃそうなるよな。

俺は、“あんまり知らなくてスミマセン”と心の中で唱えて富士山をちらっと盗み見てから、手を合わせて目を閉じ、顔を伏せた。