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鏡の魔力



                鏡の魔力


 水島恭子がその男を見つけたのは、一週間前だった。さっそく病院へ連れていったが、どうにも容態は芳しくないようだ。
「どうですか?」
 話しかけても表を見ているだけで、返答はない。いつも同じ表情で何を考えているか分からないが、表情に余裕が感じられるのが救いだろうか。実に表情は柔らかで、攻撃的なところは一つもない。
「私は誰なんでしょうね」
 ニコヤカにそう聞かれるのが一番辛い恭子だった。聞かれても答えようがないからだ。
 そう、男は記憶喪失、一週間前にフラリと街を歩いているところを発見したのだ。
 知り合いに精神科医がいるのは、偶然だが幸いだった。さっそく連絡を取って入院させたのだ。もちろん、警察にも届けたが、それほどの危険性はないということで、この病院で一時療養をさせ、ある程度回復したところで事情を聞くということになった。その間に男の身元の調査も平行して行ってくれるということだった。
「でも、捜索願が出ている人ならともかく、それ以外だとなかなか身元を確定できるのは困難ですよ。やはり本人の記憶の復活というのが不可欠でしょうね」
 警察の人は優しく話してくれた。もっともな話である。いくら警察でも、事件性のないことに対し、真剣な捜査をどこまでできるかということになるのだろう。
 男の年齢は、まだ二十代だろう。恭子が二十五歳なので、知らない人が見れば恋人同士に見えるに違いない。実際に病院の中でも事情を知っているのはごく一部、あとの人たちは恋人同士だと思っているはずである。
 救いがあるとすれば、記憶を完全に失っているわけではないところである。断片的なところは覚えているのだが、肝心なところが分からない。結局何も分かっていないのと同じなのだが、断片から思い出すこともあるらしい。
「とにかく時間を掛けるしかないだろう」
 というのが、知り合いの精神科医の話だが、それには恭子も賛成だった。記憶喪失患者にはそれしかないらしい。
 男はいつも鏡を見つめていた。そこに何があるというのだろう? 
 鏡に写った顔をじっと見つめていたかと思うと、首を捻ってみたり、何かを思い出したような表情になったかと思うと、また考え込んでしまう。
 きっと男にしか分からない何かがあるのだろうが、それが記憶を失っているから分かるのか、それとも記憶云々ではなく、その男だから分かるのか、とにかく不思議な行動であることには違いない。
 鏡というものに何かしら一目置いているのは、この男だけではない。誰もが神秘的なものとして認めるもので、話題にすることすら怖いと思っている人がいるかも知れない。
――記憶喪失特有の行動というのがあるのかも知れない――
 精神科医の先生も話していたが、あまり患者を刺激しないようにしないといけない。過去に何があったか分からないだけに、下手に刺激すると、トラウマとして残っていることがあるならば、それが爆発してしまって取り返しのつかないことになっては元も子もないというのだ。
 取り返しのつかないこととは、もちろん爆発してしまうことによって、せっかく断片的にでも残っている記憶が完全に消えてしまって、二度と記憶が戻らなくなることである。たとえまわりの環境が彼の正体を見つけることができても、完全に記憶を失ってしまっては、どうすることもできないだろう。
 一度失った記憶が、思い出すことなく、そのまま完全に消えてしまったらどうなるのだろう? 本当に記憶が戻ることはないのだろうか。そのあたりを精神科医はハッキリと名言しないが、恭子には、そう思えて仕方がなかった。
 それにしても恭子自身不思議だった。
――どうしてこの人がこれだけ気になるのだろう――
 確かに今まで記憶喪失の人を見たことがなく、最初に発見したということだけでもセンセーショナルなのだが、なぜか放っておけないのだ。本当なら精神科医に任せたところで自分の役目は終わりのはずなのに、なぜか気になってしまうのだ。
――以前にどこかで会ったことがあるのかな――
 とも感じるが、根拠のあることではない。ハッキリと覚えていないくらいなので、ここまで気にする必要はないはずだ。どうしてなのだろう? 恭子は考え続けていた……。

 学生時代はよくスポーツをしていたが、大学を卒業すると急に身体を動かさなくなることなどよくあることだ。友達にもらったスポーツジムの招待券、一緒に行く約束をしていた。
「なかなか身体を動かすこともないからな。大丈夫かな?」
「いやいや、俺たちはまだ若いんだぞ。そんなこと言っててどうするんだ」
 佐々木正人は友達の湯川と一緒にジムの扉を叩いたが、さすがに運動するのは数年ぶりということもあってか不安だった。
「まずは全身運動の水泳からやっていくことにしよう」
 招待券は一日だけではなく、数回分がつづりになっているものだった。どうやら友達が会社の社長からもらったものらしい。湯川の会社はこじんまりとした株式会社であるが、それだけに、社長からの「おすそ分け」に預かることが多いらしい。実は彼はその会社社長の息子で、数年間「ご奉公」を一般会社で済ませて、今は営業部長として辣腕を振るっている。
「お前も来ないか? やりがいはあるぞ」
 と誘われえるが、さすがに今いる会社を辞めてまで、一からというのは恐ろしい。実際会社に入って数年であるが、今まで積み重ねてきた努力と実績を考えれば、躊躇するのも当たり前というものだ。
 もう一つは実績に自信が持てないところも理由の一つである。実績に自信さえあればいつでも転職できるのだろうとも考えるが、自信が持てないのも佐々木の性格上のこと、きっと転職する勇気は、今のままでは一生持つことはできないだろう。
 冒険ができるほどの器ではないということだ。湯川は佐々木と性格は正反対で、あまり成績がいいわけではなかったこともあってか、今のこじんまりとした会社にいるのだが、却って彼の場合は天職かも知れない。
「俺は一匹狼だからな」
 と嘯いているが、それは間違いではない。彼はたくましく生きることのできる人間だ。佐々木にとっては羨ましい限りであるが、
――自分には絶対にできない生き方だ――
 と断言できるタイプの人間だ。だが、友達としては一番話がしやすく、お互いに気心が知れているのだ。
 佐々木という男、石橋を叩いて渡る性格で、人からは、
「お前くらいになると、石橋を叩いてもそれだけで渡ったりしないだろうな」
 と言われるくらいだ。
「そんなに慎重派なのかな?」
「それもあるけど、臆病なのもあるんだろうな。悪いことじゃないと思うんだ。これも性格だからな」
 佐々木の友達にはなぜか大雑把な人が多い。慎重派で臆病だという自覚のある佐々木になぜそんな人が多く集まるのか不思議だった。
 だが、大雑把というのは失礼だろう。大物というべきかも知れない。皆それぞれの道の成功者で、佐々木から見れば羨ましい限りだ。
「俺はお前が羨ましいよ」
 と彼らから言われる。
「どうしてだい? 皆成功者じゃないか」
 というのだが、
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次