天界での展開 (3)
其処では、みんな、気 というものを使って話していた。双方の天界に住む者は、気で意志の疎通を行なえたので、爽やかな風の音や朝の葉から滴り落ちる雫の音に耳を傾け、お互いに仲良く暮らしていたものさ。何故なら、気を使えば音を出さずに話せるからね。
だが、話は、問題となる六十四億七千万恒河沙由旬よりもかなり以前に戻るけれど、その遥か昔の或る時までは、みんなは、それは穏やかで、何も食べなくとも空腹を感じず、暮らしに必要なものは全て整えられ、毎日この大宇宙を創造された大神様を讃えながら暮らしていた。
だが、或る時、『これまで幸せに暮らしてきたが、我々を創造された大神様のお姿を目にした者は、これまでただ一人として存在しない。一度だけでも、大神様のお姿を拝しながらお礼や感謝の言葉を述べてみたい。』と、一人の者が言い始めた。そして、その言葉は、それまで、日々の暮らしを楽しんでいただけの者達に小さな欲、つまり、大神様に直接会いたいという欲を抱かせ始めたのだ。最初は、ほんの小さな、囁きにも似た声だったが、やがて、行動を伴った大きなうねりとなり、『大神よ、我々の面前に!』と、希う(こいねがう)叫びに依るデモンストレーションとなった。これが、声の始まりだった。それまでの静かな暮らしは、声に依って徐々に騒がしくなり、鳥の羽音やサワサワと揺れる木々の葉音もかき消されてしまった。ある秩序の変革を試みる場合、その先頭に立つ者は、その変革が今よりも幸せをもたらすものかどうかを熟慮しなければならない。が、平穏無事に過ごしていた者達の中には、自己の言動を顧みる事無く、また、自らの声に酔い、今の幸せよりも、もっと素晴らしい幸せが有るのではないかなどと想像を巡らせる者も現われる様になり始めた。
天界常務委員会は、この現象に只ならぬ未来を危惧し、大神様に対し、一度だけで好いから衆生の前にそのお姿を現して頂きたいと願い出た。
だが、その様な委員会の声にも大神様は、黙して語らず。ましてや、みんなの眼前にお姿を現す事など決してなさらなかった。
希う者達は、やがて、『大神様は、本当にいらっしゃるのだろうか。』などと、ヒソヒソ話し始める。その呟きは、気でなくて、声という新しい意志疎通手段で益々騒々しくなった。その所為で、アポロンやムーサ、東洋で云えば、数々の詩仏・詩仙・詩聖たちが、騒々しい世界を嫌い、暫く影を潜めるという事態にまで陥った。詩仏・詩仙・詩聖は、人間界では或る特定の人物を呼ぶ言葉となっているが、遥か昔は、詩や歌などを得意とする者を総称した言葉だった。
まあ、話がいくらか逸れたけど、大神は本当に実在されるのだろうかという言葉に、『我こそは、大神である。』と、声高に言い募る者が複数現れ、そして、それが、まやかしであったと知れるや何処となく消え失せる時代が、八億三千恒河沙由旬の間も続いた。
勿論、大神の存在を疑わず、それまでの暮らしを尊しとする者も多く存在し続けた為に、声を尊しとする者達との諍いも勃発。一触即発の危機に発展する事も珍しくなくなって来た。
そして、ついに今から六十四億七千万恒河沙由旬前に、天界常務委員会は、無用の争いを避ける為に、声を尊しとして、更なる幸福を求める者達は右天界に、それまでの暮らしを尊しとする者達は左天界にと、それぞれが住む場所を別にして暮らす事を許して頂く様にと、大神様に言上するに至った。
だが、この時も、大神様は、にこやかにお笑いになるばかりであった。
天界常務委員会は、都合三度の言上を行なったが、大神様からの御意思は聞けず、ついに常務委員会の責任として、右天界と左天界での住み分けを決定するに至った。
以来、双方とも天界と呼ばれていた処も、考えを異にする異世界である為に、右天界を新たに人間界と呼ぶ事とした。
まあ、新しいもの好きは、グングンと変革を推し進め、最初は互いに『これを着ると温かいよ。』とか、『お宅は、大家族だから大変だろうね。どうぞ、これを食べて・・』などと和気藹々だった。が、やがて新天地で幾人かの指導者が現れ始め、その指導者たちは、自分の勢力を伸ばそうと物を使って手下を増やし始める。物で靡かない者達には、ついには力で以って威圧を始める有り様だ。左天界の者達は、気で、『それは、本来の目的ではないでしょう。お止めなさい。』と、囁きかけるが、もはや人間界の殆どが、気の言葉を理解出来なかったり、まるで聞こえなかったりの始末となった。
それでも、そのうちに自分達の行状に気付いて、思いを変えて本当の幸せを再び味わう日が来るだろうと、天界から手を変え品を変え呼びかけ続けているが、事態は、悪化するばかりだ。
勿論、人間界で本当の幸せを説く為に、天界から多くの者が志願して人間界に赴き、言葉を使って教えを広めたが、心の隅になごりとして残った遠い祖先の思いに気付く者は、決して多いとは言えない。
更に悪い事に、人間界で力というものを過大評価する輩が、その勢力を伸ばし始めると、天界では想像すらし得なかった血で血を洗うという同族同士の戦までが起きる様になり、口では平和を声高に叫びながら、その裏で、あらゆる方法で力を鼓舞し続けている。そして、その力を鼓舞する者達のすべてが、平和で幸せの為の戦だと豪語して止まない。
ごく短い人間界で、有史以来、戦の無い時代など存在しない。いや、むしろ最近では、力の下での平和しかあり得ないと殆どの人間が思っている。これは、大きな間違いだ。大きな間違いだが、人間はそれに気付かない。それどころか、その言い訳を是として、ごく一部の者達に力が集中する様に蠢いているとしか判断出来ない。
天界常任委員会としては、この様な嘆かわしい世界を築いた事に一端の責任を感じている。いや、一旦の・・どころではない。まずは、右天界と左天界での住み分けを決定したという大きな責任があるのだ。
今なら、まだ間に合う。間に合うかも知れないと委員会は考え、人間界に天界の者達を送り、平和裏に少しずつ殺伐とした世の変革を図ろうと動く事に決めた。
そこでね、権蔵さん。俺は、人間界で最もこの任務遂行の手助けをして貰えそうなあんたを委員会に推薦したという訳なんだ。
この場に居る主倍津阿教授と純真、それに、桃花よ。お前さん達も権蔵さんと一緒になって、人間界に降りて大いに働いて欲しいと思って閻魔殿召集をかけたのだ。数こそ少ないが、俺と合わせてこの四人で世界を変える為に働いて欲しいのだけど・・ 三人は、俺の話が理解出来たと思うけど、権蔵さん、あんた、俺の話は理解出来たかい?」
「さっぱりだ。さっぱり分からない。だが、この若くて可愛い姉ちゃんと一緒なら、俺は、何でもするし何処にでも行くぞ。姉ちゃん、頑張ろうな。」
「・・・」
「まあ、俺の様に学の無い者と夫婦になるなど考えも及ばなかっただろうが、これも運命だ。恨むなら、こんな法を作った天界を恨んでだな、俺と一緒に仲良く暮らそうや。」
「・・・」
「桃花よ、お前には本当に気の毒な謀をした。この地蔵、頭を下げて謝る・・」
「あっ、地蔵菩薩様、わたしの様な者に頭を下げてまで・・勿体のうございます・・ しかし、今、わたしに謀をした と申されたのでしょうか?」
作品名:天界での展開 (3) 作家名:荏田みつぎ