Thorntail
「コーヒー飲むんですか?」
高城はうなずいた。早紀が冷蔵庫を開けて中に頭を突っ込んだタイミングで、耳打ちを返した。
「ここの母娘が出したコーヒーは、必ず飲め。仕事の内だ」
「断ったら、どうなるんです?」
「試してみるか?」
高城が言うと、戸田は諦めたように小さく笑った。モズには、様々な慣習がある。それが破られないのは、破ったときに何が起きるか知っている人間が、ひとりも生きていないからだ。冷蔵庫から顔を出した早紀は、ラップにくるんだロールケーキを出してきて、テーブルの上に置いた。お湯が沸騰し、三人分のコーヒーを作った早紀は、言った。
「今夜は、暴風域になるそうです」
「海沿いだと怖いね」
高城が言うと、早紀は残念そうに小さくうなずいた。戸田がコーヒーをひと口飲んだとき、時計の秒針しか聞こえない部屋の中に、外で砂利を踏む音が入り込んできた。高城が最初に気づき、早紀が言った。
「ママかな」
高城は早紀を制止して立ち上がると、二階に続く階段を上った。今のは、慣れた家に入ってくるときの砂利の踏み方じゃない。二階から車回しを見下ろせる窓の手前に立った高城は、ゆっくりと覗き込んだ。ベージュの砂利に溶けあわず反発するような、黒の車体。
あのメルセデスが停まっている。高城は階段を駆け下りて、戸田に言った。
「メルセデスだ」
戸田が咄嗟に頭を低くし、早紀がコーヒーカップをテーブルの上に置いた。カーテンの隙間から外の様子を一瞬だけ確認した戸田が、指を二本立てた。運転席と助手席にひとりずついる。しかし、手前で後部座席の人間が降りた可能性もある。高城は、戸田を台所まで呼び寄せて、早紀に言った。
「この家に銃はある?」
早紀は冗談を聞いたように笑いかけたが、真顔に戻って首を横に振った。高城は、リュックサックの中に収められたイングラムに視線を向けた。弾倉の中身は、夜にほとんどを撃った。予備の弾はシルビアの中だ。高城は周囲を見回した。
「立て籠れそうな部屋はあるかな? 窓とドアを塞ぎたい」
早紀は壁に埋められた金庫の暗証番号を入力して扉を開くと、ぬいぐるみのキーホルダーがついた鍵を取り出した。
「これで、窓は全部シャッターが下ります。あと、自動的にホテルに連絡が入ります」
高城は一回余分に瞬きをしたが、思い直したようにうなずいた。
「やってくれ」
早紀がセキュリティパッドに鍵を差し込んで暗証番号を入力すると、家全体が揺れるような音を立てて、鉄製のシャッターが窓を塞ぎ始めた。早紀はノートパソコンを持って台所に置くと、カメラに接続して高城に見せた。
「車が一台、停まってます」
白黒映像に映る、例のメルセデス。人相は分からないが、運転席に人影が見える。助手席には見当たらない。高城は、戸田に言った。
「二人だったな?」
「さっき見たときは、そうでしたね」
最低でも二人はいる。この車で来たとしたら、最大で五人。ホテルに連絡が入ったなら、間違いなく助けが来るだろう。問題は、リュックサックの中のイングラムだ。高城は、戸田に言った。
「一応、早紀ちゃんと二階に上がっててくれ」
二人が階段を上がっていくのを見送り、高城はリュックサックを開けた。弾倉を抜いて弾を数えたが、残っているのは五発だけだった。たった五発の三八〇ACPでどう戦えばいい。おまけに、戦っていいかもわからないのだ。シャッターがあるから、時間は稼げる。そもそも、メルセデスはどうやってここまで辿り着いたのか。撒くための手段は、教科書通りに全部実行した。高城はイングラムに弾倉を差し込むと、セレクターをセミオートに切り替えてからリュックサックに戻し、居間のソファの上に置いた。周囲には、この家より高い建物はない。裏にそびえる山の斜面はかなりのもので、上ったところでシャッターに塞がれていれば、部屋の中を狙える余地はない。頭の中が徐々に整理され、家の中を流れ続けている水の音だけが残ったとき、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
「はい」
高城が短く答えると、電話の向こうでアザミが言った。
「何が起きてるの?」
「昨日の追手が、家の前にいます」
それが意味することは、アザミにも伝わっただろう。長い沈黙が証明していた。拠点のひとつが『割れた』のだ。高城は言った。
「戸田を見張れって、言ってましたよね」
「おそらく、戸田さんは副業をやってるわ。尻尾を掴めたら、わたしに教えてほしい」
副業。戸田の場合なら、他の組織のドライバーとして働いているということだ。高城は、思わず二階を見上げた。
「分かりました」
「早紀ちゃんは、どうしてる?」
「二階に、戸田と一緒に逃がしています」
高城はそう言ったところで、ノートパソコンの小さなディスプレイを覗き込んだ。メルセデス以外に、車の姿はない。
「あの、貴美子さんは帰ってこないんですか?」
「貴美子さんなら、ホテルにいるわよ。帰らないように、今言ったとこ。浜井と馬淵にお願いしてあるから、動かないで」
浜井と馬淵は、二人とも新人のはずだ。先輩についていって、仕事を学んでいる状態。そんな人間を寄越して、何になる? 頭ではそう思いながらも、出てきた言葉は全く違った。
「ありがとうございます」
電話を切って、考える。高城は、ノートパソコンを眺めた。運転席には、まだ人影が見える。さっきは光の加減で見えなかったが、今は助手席には誰も乗っていないのが分かる。おまけに、運転手はご丁寧に、覆面を被っていた。アザミは、反撃の手段がないという前提で、人を寄越すと言っている。しかし、浜井と馬淵が仮にメルセデスの連中を始末したとして、次に待っているのは『実況見分』だ。外に出られない以上、イングラムを捨てる手段はない。流れ続ける水の中に放り込んでも、大きさからすると途中でつかえるだろう。仕事が終わった後も、道具を持ち続けていたら、どうなるか。カラスが責任を問われることはない。全てがこちらの肩にのしかかってくる。高城は二階に上がって、排水溝の隙間から外を覗いている戸田に言った。
「戸田、ちょっと来てくれ」
同じ部屋でスマートフォンを触る早紀が興味津々な様子で首を伸ばしたが、高城は目を合わせないようにして、戸田を連れて一階に下りた。この窮地を脱するための計画が、頭の中で練られつつあった。スカイラインの鍵は、戸田のジーンズのポケットに入っている。高城は、戸田を台所まで連れて行くと、言った。
「単刀直入に言うぞ。嘘もごまかしもなしだ。お前、副業やってるか?」
立ち尽くしている戸田をしばらく見ていた高城は、居間のリュックサックを開き、イングラムを取り出した。ボルトを力任せに引き切ると、銃口を戸田に向けた。
「おれは、アザミからお前を見張るように言われてる」
戸田は平手打ちを食らったように瞬きをした。高城は銃口を下ろした。戸田は渋々うなずいた。
「何度か、ドライバーとして入りました。それは間違いないです」
「金が要るからか?」
「いえ、この組織でずっとやっていく自信がなかったので」
四年前の自分を見ているようだ。動機は真逆だが、やろうとしていることは同じ。高城はうなずいた。