世界終了
「おれは真理亜を愛している」
「わかってる」
伊勢崎はわずかに唇を歪めただけだった。互いの体をぴったりと寄せあって、おれたちはそのときを待った。灼熱はすでにおれの足元にまで迫ってきていた。
世界が終わるその瞬間が、近づいていた。
なんだよ、それ。だいじょうぶなのかよ。
おもしろそうじゃない。やろうよ、ねえ、稔之。
だけど、まだ実験段階なんだろ。信用できんのか。
もっとポジティヴに考えなよ。うちらが初なんて、すごいことだよ。もしかして、歴史に残っちゃうかも。
そうだよ。歴史に残るカップルだ。きみたちはうちの大学の名物カップルなんだし、実験体には申し分ない。
そんないいかた、やめろよ。なあ、真理亜、なんか、怪しいぜ。
平気だよ。伊勢崎くんは秀才なんだって、前に稔之がいってたじゃない。
だいじょうぶ。ぼくを信用してくれ。問題はないよ。これはただのゲームなんだから。
目を開けた瞬間、真っ先に目に入ったのは純白だった。ここは天国か、それとも地獄か。おれの思考を打ち消して、だれかがいった。
「意識が戻ったぞ!」
伊勢崎のものでも、当然真理亜のものでもないその太い緊張した声を追って、おれは眼球をめぐらせた。頭がひどく重く、持ち上げることはとてもできなかった。なんとか首だけを傾けると、頭に無数のチューブを繋げられて眠っている真理亜が目に入った。
「真理亜!」
飛び起きようとするおれの頭をだれかが引きとめた。人間の手ではない。おれの頭部にも、真理亜と同じようなチューブが貼りついていた。
これはいったいどういうことだ。必死に周囲を見回す。真理亜と対極の位置に、伊勢崎がいた。やはり頭にチューブを埋め込まれ、金属製の台に寝かされている。名前を呼ぶと、眼鏡のない眉間にわずかに皺が寄った。
「こっちも目覚める。脈を測れ。脳波もだ。急げ」
伊勢崎の脇でモニターを見つめていた白衣の男が、手にしていたファイルを投げ棄てて声を張り上げる。床に落ちたファイルに書かれた図面には見覚えがあった。記憶を辿ろうとしたとたん、即頭部に刺されるような痛みがはしった。
「伊勢崎、起きろ、伊勢崎」
意識を失わないように全身に力を込めながら、傍らの伊勢崎に手を伸ばす。頼れるのは彼しかいなかった。死んでしまったのかと思ったが、伊勢崎は短く呻いた。台から落ちた手が、おれの手を求めて彷徨った。おれと伊勢崎の間に体を割りいれるようにして、白衣の男がその手を取った。
「脈拍、脳波ともに異常なし。身体的外傷も見られない」
独白か報告か、男は機械的にいう。
「そっちはどうだ」
べつの男がおれを押さえつける。ペンライトのような小さな、しかし鋭い光に目を刺されて、おれは顔をしかめた。
「異常ありません」
「こっちもです」
真理亜のほうには女性研究員がついていて、モニターを指差しながら声を上げた。
「脈拍が不安定ですが、問題ない範囲です」
問題ない範囲だと。おれは声を上げそうになった。おまえらはだれだ。いったいこれはどういうことなんだ。
しかし、その前に、伊勢崎が意識を取り戻した。ふらつきながらも台の上に起き上がる。おれの腕を押さえていた白衣の男に向かって、掌を閃かせた。
「やめろ。チューブをはずせ」
「でも……」
「問題はない。ふたりを自由にするんだ」
「はい」
白衣の男が素早くチューブをはずし、おれは自由になった。手術を受ける患者のような薄い青の衣服を着ていることに気づき、眉を寄せる。同時に記憶が甦ってきた。
これはただのゲームだ。問題はない。
突然、けたたましい叫び声がした。真理亜が目覚め、暴れはじめていた。白衣の女が蹴り飛ばされ、リノリウムの床に倒れる。複数人の男たちが総出で真理亜を台に押さえつけた。
「乱暴するな。混乱してるだけだ」
冷ややかな声。伊勢崎は研究員から受け取った眼鏡をかけ、台に座り込んでいた。
「これがゲームか」
真理亜の叫び声を聞きながら、おれは伊勢崎をにらみつけた。
「記憶が戻ったか。よかった。実験は成功だな」
「どこが成功だ。こんなこと、遊びの域を超えてる」
「遊びじゃない。ゲームだ」
床に落ちたファイルを拾い上げながら、伊勢崎は平然といってのけた。
「新世代の相性診断ゲームだよ。人間は極限の事態に直面してはじめて本性をあらわす。相手が本当に自分を愛してくれているか、護ってくれるのか、たしかめるには最上の手段じゃないか」
同じ台詞を耳にしたのは、遠い昔のような気がする。しかし、実際には、ほんの数時間前のことなのだ。大学のベスト・カップル・コンテストに入賞した翌日、講堂で受けた説明とまったく同じものだった。
真理亜も思い出したらしい。暴れるのをやめ、台の上で身を縮めてすすり泣いている。仮想体験とはいえ、あれほど恐ろしい目に遭ったのだから、当然だろう。掠れた泣き声を聞いて、おれの胸は軋んだ。
「こんな失敗作の実験におれたちを利用しやがったのか」
「失敗作なんかじゃないさ。現にこうして戻ってきている」
「じゃあ、なんでおまえもきたんだ。ただの相性診断テストなら、そんな必要はないだろう」
おれの追及に、伊勢崎はわずかに眉を顰めたが、それも一瞬だった。おそらくは予期していたのだろう。教科書を朗読するようにつづけた。
「一部想定外の事態が起きた」
「想定外の事態?」
「シミュレーションした世界が不完全で、部分的にしか現代の状態を再現できなかった。そこからコンピュータがバグを起こして、向こうの世界でのダメージが本体になんらかの後遺症をのこす可能性を……」
「後遺症?」
「だいじょうぶ。要は、心臓が停まりさえしなければいいんだ。ほら、どこも痛くないだろう」
たしかに、銃弾を受けたはずの腹にはかすり傷ひとつなく、二日酔いのような頭痛を除けば、とくに苦痛は感じなかった。しかし、もちろん、だからといって黙っているわけにはいかなかった。
「冗談じゃない。死ぬとこだったんだぞ!」
「その一歩手前で戻ってくるようになっているんだ。設定よりもやや過激にすぎて、脳波に微妙な影響が見られたから、おれが様子を見に行ったんだ」
「伊勢崎先輩」
さっき真理亜を診断していた女性研究員が寄ってきて、伊勢崎の耳になにごとか囁く。
「なにをこそこそ喋ってるんだ」
「なんでもないよ」
「いえ!」
「……スポンサーの件でちょっとね」
伊勢崎は面倒くさそうにいい棄てた。
「佐古さん……彼女の父親だよ」
記憶を辿ろうとした。うまくいかなかった。当然だった。もともと知らないことだったのだ。
「ぼくの研究に価値を見出してくれて、資金を出してくれるひとなら、だれでもいいんだ。もちろん、きみにとっても、たいしたことじゃない」
おれは茫然と台を降りた。長い時間寝ていたせいか、足がふらつき、床に膝をついた。
「だいじょうぶか」
伊勢崎もおぼつかない足取りでおれに近づいてくる。掌を掲げて拒絶した。
「おまえが責任者なんだな」
「……そうだよ」
返答には間があったが、怯んでいる様子は見られなかった。
「ぼくはこのゲームのプログラマーだ。訴えたいなら、ぼくを」
「そういうわけにはいかないさ。将来の義父が関わっているんじゃな」