世界終了
「嘘いわないで。なにか知ってるんでしょう。たしか、機械工学科の学生だっていってたよね。ひょっとして、あんたがこの街をこんなふうにしたんじゃないの」
「妙ないいがかりはやめてくれ。いくらぼくが機械工学科だからって、こんな大掛かりな悪戯をする理由がどこにあるっていうんだ」
「稔之に近づきたかったんでしょう。立派な理由じゃない!」
伊勢崎がはっとして口を噤む。真理亜の敏感さを、おれも見くびっていたらしい。大学構内のプレハブで伊勢崎に迫ったのも、彼女なりの保身だったのかもしれなかった。
「いい加減にしろ、真理亜!」
それ以上黙っていられず、おれも声を高めた。
「そんなくだらない理由で、ここまでやるわけないだろう。すこしは冷静になってくれ。銃を渡すんだ」
「嫌よ!」
「わかったよ、佐古。きみの思っているとおり、ぼくはきみの婚約者を密かに思っていた」
鉄の棒をずらすように一歩踏み出して、伊勢崎は子供にいい聞かせるように真理亜に話をしようとした。
「でも、それは今は関係ないことだ。みんなで協力して、ここを出よう。この資料をつかって……」
「動かないで!」
地面に散った紙切れを拾おうと腰を屈める伊勢崎に、真理亜が銃を向ける。血ばしった目を見た瞬間、おれの背すじを冷たいものが駆け抜けた。
「やめろ!」
気づいたときには、ふたりの間に体を割り込ませていた。腹部に熱を感じたかと思うと、おれは資料を血で濡らして地面に倒れていた。
「能見!」
「稔之!」
伊勢崎と真理亜の声が交互に聞こえ、混じりあって消えていく。朦朧とする意識のなか、おれは酸素を求めて必死に喘いだ。
「稔之……嘘でしょう、ねえ」
真理亜の泣き声が額の上を通り過ぎていく。
「能見。しっかりしてくれ。こっちを見ろ。だいじょうぶだから……」
「どうしよう。あたし、そんなつもりじゃなかったの。撃つつもりなんてなかった。ねえ、稔之はわかってくれるよね。わたしに撃つ気がなかったって、みんなにいってくれるでしょう」
理性の声と狂気の声がおれの目の前を錯綜する。地面が大きく揺れた。目眩のせいではない。現実に、背中の下で地面が罅割れはじめていた。
「佐古、能見を支えてくれ。ここから離れないと……」
「だめ。あたしには無理よ!」
「頼む、佐古。ぼくの足じゃとても……」
「だめ、だめ、無理よ!」
理性と狂気の声はつづく。おれは呻きながら伊勢崎の腕をつかんだ。
「伊勢崎……」
「なんだ、能見。いいたいことならあとで……」
「あとはないんだよ、伊勢崎」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
「おまえのいうとおり、アダムはひとりでいい。おまえがアダムだ。真理亜を護ってやってくれ」
「能見……」
おれの体の横で地面が真っ二つに割れた。真理亜が言葉にならない声を上げる。
「逃げなきゃ。逃げるのよ、伊勢崎くん!」
真理亜が伊勢崎の肩を圧す。女とは思えない力だったが、伊勢崎は烈しく身を捩ってその手を振り払った。
「能見を置いていくのか。彼はきみの婚約者だろう!」
「こうなったら、関係ないわよ。みんな揃って死んだら、意味がないわ!」
「真理亜のいうとおりだ、伊勢崎。行ってくれ」
「嫌だ!」
「伊勢崎!」
おれは必死に声を上げた。自分の叫び声が脳髄を震わせ、意識が遠のきかける。思ったより傷は深いらしかった。
「本当におれたちが最後の男だったらどうする。人類の未来がかかっているんだろうが!」
彼自身の言葉が、伊勢崎の口を閉じさせた。血に塗れたおれの腹に手をあてたまま、伊勢崎は硬直した。
「お願い、伊勢崎くん。約束してくれたでしょう、稔之になにかあったら、代わりに護ってくれるって」
おれを見下ろして、伊勢崎は色が変わるほど強く唇を噛んでいる。理性の声と狂気の声の間で、彼も闘っているのだった。
体が大きく傾いだかと思うと、おれのすぐわきの地面に真っ直ぐ罅がはいった。伊勢崎が素早く引き寄せてくれたおかげで間に落ちずに済んだが、おれたちのいる側の地面は微振動を繰り返しながら徐々に切断面をずらし、下降していく。
真理亜がスカートの裾を翻して切り立った地面の向こう側に移動する。彼女が振り向いたときには、すでにおれたちは見下ろされていた。数分も待たずに、こちら側の地面は崩れていってしまうだろう。
「伊勢崎くん、早く!」
真理亜が手を伸ばすが、伊勢崎はおれを抱えたまま動かなかった。
「伊勢崎くん!」
「行けよ、伊勢崎、頼むから行ってくれ」
「でも、ぼくは、でも……」
「行け!」
おれは渾身の力を込めて伊勢崎の腕を振り払った。肘をついて起き上がりながら、伊勢崎の背を圧す。腕がぐらついてまったく力が入らなかったが、伊勢崎はよろけるように立ち上がった。おれから視線を離すことなく、横向きに歩き出す。足を踏みはずしそうになる伊勢崎のシャツの襟を、真理亜がしっかりとつかんだ。
真理亜に引っ張り上げられながら、伊勢崎が崖のように変形した地面の向こう側によじのぼる。完全に移動したのを確認して、おれは息をついた。これでいい。できることなら、最後の男になりたかったが、これが運命だというなら、受け容れるしかない。
伊勢崎がおれのほうを見下ろしている。真理亜はとめどなくつづく轟音に青褪め、周囲に視線を泳がせている。おれは伊勢崎に向かって大きく頷いてみせた。
烈しい揺れとともに高低差が拡がり、おれの足元がすこしずつ分解していく。擦れあう切断面から腰をずらして離れたが、地底から響く音は確実におれのもとに迫りつつあった。
地層の隙間から朱の液体が漏れ出し、黒々とした地底に落ちる。次の瞬間、灼熱が湧き上がった。泥に似ているがまるでちがう、マグマのような熱が地面に盛り上がり、固まるのを待たずにまたつぎの溶液が流れ出てくる。炎と煙が上がり、おれを包もうとする。
「能見!」
おれが声を上げるよりも早く、伊勢崎が立ち上がった。真理亜が制しようとするのを待たずに、空中に身を躍らせた。
とても優雅とはいえない跳躍でおれの足元にぶざまに転がった伊勢崎を見て、言葉が出てこなかった。頭上の真理亜も、茫然としておれたちを見下ろしている。
「馬鹿……早く上がれ!」
「もう無理だよ」
条件反射だろうか、とうに失った眼鏡を持ち上げるしぐさを見せて、伊勢崎が肩を竦める。その表情は居直りにちかい落ち着きを取り戻していた。たしかに、おれたちのいる地面は落下する速度を増していて、真理亜が手を伸ばしたとしても、上に戻ることは不可能だった。
「なにやってるんだよ、おまえ。どちらかひとりは残って真理亜を護ってやらないと……おまえがいったんだぞ!」
「わかってるさ」
こともなげにいって、伊勢崎はおれを見た。
「人類の未来なんて、ぼくにはどうでもいい。きみがいない世界なんて、ぼくにとっては……」
痛みに遠のいていく意識のなか、おれは伊勢崎の告白を聞いた。視界の隅で、真理亜が身を翻すのが見える。せめて彼女だけでも生き残ってくれればいい。怒りはなかった。むしろ罪悪感が残った。おれは真理亜を心底から愛していたか、けっきょく最後までわからずじまいだった。それでもおれは、肩をつかむ伊勢崎に向かっていった。