世界終了
伊勢崎が懐中電灯を拾い上げ、罅のはしっていた窓ガラスを割る。その間にも揺れは激しくなり、立っていられないほどだった。
自分も上半身を外に出すようにして、なんとか真理亜を先に脱出させた。
「早くしろ、伊勢崎!」
「いいから、先に行け!」
腰を圧され、爪先だけでバランスを取っていたおれの体は、室外に投げ出された。真理亜が泣きながら縋りついてくる。土埃を上げて突っ伏しながら、振り向いた。
おれたちの目の前で、プレハブの小さな建物は横に揺れながら潰れていった。
「伊勢崎!」
揺れがおさまるのを待たずに、駆け寄った。平行四辺形に捩れた窓の隙間から、手を差し入れる。
「伊勢崎!」
小さく呻く声が聞こえた。おれは我を忘れて窓枠に体を捻じ込んだ。
「頑張れ、伊勢崎。すぐ出してやる!」
下半身を瓦礫の下敷きにしながら、伊勢崎がおれのほうに手を伸ばす。その手を握ろうとしたが、もうすこしのところで届かない。
「なにか切るものはないか!」
真理亜がなにか声を上げ、背後で駆けまわる足音がした。
真理亜が見つけてきた鉄パイプを窓に押しあて、梃子の原理をつかって窓枠を拡げた。もう一度潜り込むと、なんとか伊勢崎の手をつかむことができた。全身に力を込め、引きずり出す。伊勢崎の両脚が抜け、反動でおれも仰向けに転がった。
「だいじょうぶ、稔之!」
「おれはなんともない。伊勢崎は……」
振り向いた瞬間、愕然とした。伊勢崎の膝から下は血まみれだった。出血のショックからか、意識を失い、うつ伏せに倒れている。
「またきた!」
真理亜の叫び声とともに、再び地面が大きく揺れはじめる。耳を聾する衝撃音が響いてきたかと思うと、数メートル離れた校門の中心から地割れが起きた。
おれは昏倒した伊勢崎を肩に抱え上げ、真理亜を連れて大学の外に向かって駆け出した。
どれほど歩いただろうか。背後で真理亜が泣き声を上げた。
振り向くと、真理亜はしゃがみこんでしまっていた。
「いったい、どこに向かってるのよ。どこまで行くつもり?」
答えるべき言葉が見つからずに黙っていると、真理亜は焦れて癇癪を起こした。
「こっちは裸足なんだよ。もう歩けない!」
「しかたないだろ。こんなところで夜を明かすわけにはいかないんだから」
「それならせめて、ちょっとはゆっくり歩いてよ!」
「ゆっくり歩いてるよ。おまえも裸足できついかもしれないけど、おれだって、伊勢崎を背負ってるんだぞ!」
「だったら、置いていけばいいじゃない!」
おれは言葉を失った。真理亜が気まずそうな顔で視線を逸らす。
「よくそんなことがいえるな。伊勢崎はおれたちを助けてくれたんだぞ」
「わかってるけど、でも、その怪我じゃ、どうせ……」
真理亜がぎくりとしたように言葉を切る。おれの背中で、伊勢崎が小さく呻いた。
「だいじょうぶか、伊勢崎」
慌てて下ろそうとしたが、わずかに動かしただけで伊勢崎は顔をしかめた。完全に脱力した伊勢崎の太腿から滴る血で、腕がぬめる。歩くどころか、立つことさえままならないようだった。
「すこし休もう」
短くいって、視線を巡らせる。無残に倒れた木の幹やコンクリートの欠片で埋め尽くされた公園が目に入った。
ひしゃげた遊具に体をもたせかけて、伊勢崎は苦しげに息を吐いた。真理亜のいうとおり、傷は決して浅くない。
「あたし、お水、探してくるね」
さすがに居心地が悪かったのか、真理亜が足早に公園を出て行く。目を離すことに不安をおぼえたが、止めなかった。
意識が朦朧としているのか、伊勢崎は怪我を負った両脚を投げ出して脱力している。
暗がりのなかで必死に目をこらし、伊勢崎の傷を見てやる。出血は徐々におさまっているものの、傷口はぱっくりと開き、縫わなければならなさそうだった。しかし、当然ながら、手術を施せるだけの道具も腕もない。おれは途方に暮れて、唇を噛んだ。
脱いだTシャツの端を引き裂いて、太腿の辺りに巻きつける。力任せに締め上げると、伊勢崎が声を上げた。
「痛かったか」
「ああ……いや、平気だよ」
伊勢崎は首を振り、力なく笑った。
「どうせ、助からないんだもんな」
なんともいいようがなかった。もう片方の脚も同じように止血しながら、おれはつとめて軽い口を叩いた。
「真理亜のいうことは、気にするな。おれのほうから謝るよ」
「べつに、謝ってもらうことはないさ」
「箱入り娘で、多少わがままだけど、悪い女じゃないんだ」
「わかってる。謝る必要はないといってるだろ」
伊勢崎が投げ遣りにいう。怒りというよりは、疲れたような口ぶりだった。
「……佐古と結婚するのか」
「なんで知ってる?」
「噂で聞いた。ふたりとも、目立つからね」
真理亜は去年のミス・キャンパスに選ばれている。おれもすでにプロ・リーグのスカウトに声をかけられていて、たしかに、学内ではそれなりに名を知られていた。つい昨日までの話なのに、ひどく昔のことのように思えた。
「やめたほうがいい」
「結婚のことか」
「大きなお世話だといわれるかもしれないけど」
伊勢崎は素早く辺りに視線を配りながら、いった。
「彼女は、能見が思っているような女じゃないよ」
本当に大きなお世話だ。怒鳴りつけてやってもよかったが、血の気の引いた伊勢崎の顔には、苦痛を超越した切迫があって、口を挟むことはできなかった。
「さっきだって、そうだ。ぼくは、佐古を襲ったりしていない。彼女のほうから迫ってきたんだ。きみにもしなにかあったら、ぼくに代わりに守ってほしいって」
ひと息にいって、伊勢崎は呻いた。
「信じないだろうね」
「いや」
伊勢崎の苦笑いを、おれは真剣な顔で受け止めた。
「嘘をついているようには見えねえよ」
真理亜は弱い女だ。男の保護なしに生きていけるだけの逞しさを持っていない。こんな異常事態のただなかに置かれては、不安でたまらなくなっているはずだ。そのぐらいのことはしかねなかった。
手当てを終え、伊勢崎の隣に腰を下ろす。肌を撫でる風が冷たくなっていた。早いうちに火をおこさなければならない。しかし、体がひどく重く、立ち上がることさえ億劫だった。
「愛してるのか」
「真理亜を?」
それ以外の選択肢のあるはずがなかった。ここには真理亜と伊勢崎とおれの3人だけしかいないのだ。ひとりで笑ってしまったおれを、伊勢崎が訝しげに見た。
「笑える話か」
「いや。気にするな」
掌に顔を埋め、息を吐く。
「愛してるよ。愛していなくて、婚約なんかするわけない」
無意識に早口になる。言葉の数が多すぎた。
伊勢崎はなにもいわなかった。沈黙はおれの疑問をかえって増長させた。
おれたちは学内でも有名なベスト・カップルだった。顔が売れればそれだけ噂が増える。もちろん、いいものばかりではない。真理亜の実家が資産家であることから、歪んだ陰口も叩かれた。そのたび、おれは嘲笑で受け流してきた。いいたい奴には勝手にいわせておけばいい。おれは本気で真理亜を愛していた。彼女を護ってやることが使命だとまで感じていた。現実に、こんな事態になった今も、全力で彼女を護ることで、かろうじて冷静を保っているという自覚があった。