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没、乃至没集

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知識とは、そのままの通りです。赤い、丸い、熟れた果実を見て、それがリンゴだとわかる方が殆どでしょう。もしくは、触感で、匂いで、味覚で、それがリンゴだとわかることでしょう。この場合、無知の知も同時に適応されます。例えば、では、リンゴを見たことのない人に説明する場合、どうやって説明するか、と言われれば私は困り果てます。私の場合、それ以上に、りんごにそれぞれ種類があることは存じていますが、何一つ、リンゴの種類や、名称や、ましてや、青森はリンゴが有名なので、そこ以外のどこで、栽培されているのか碌に知りません。しかし、それを知っています。私は、リンゴは分かりますが、何のリンゴか、リンゴの詳細など分からないことを知っています。私が、ソクラテスから得た、無知の知とはこういうことなのでは、と思ったのです。そして無知の知には、未知の知も含まれています。ここからが、私の考えたものですので、詳しく解説していきます。
リンゴは分かり、リンゴの種類などが分からないことを分かる。ここまでが知識と無知の知で、未知の知とは、きっとまだ出会っていないリンゴがあるであろうと、即ち想像することなのです。しかし、この場合、リンゴの詳細などは、インターネットを通じて全て知ることが出来るので、未知の知に限りがあります。と思われるでしょうが、では、実際にそれを経験しに、全てのリンゴの栽培場に赴いてみてください、きっと、同じリンゴ栽培ではありますが、全てが同じというわけにもいかないでしょう。何より、それを栽培する方、土地、空気、その全てが違うものでしょう。それはきっと、自分が想像していた以上のものであるか、失望しても、それは想像以上に想像以下という、それもまた、想像から、未知の知から、逃れられぬものなのであり、どちらも予期せぬことが、ものが、経験した、というものであります。この時点で、あなたの未知の知と無知の知は同時に解消され、しかし、その未知の知を経験したからには、あなたはきっと、自分が知っているものなどちっぽけなものだと、思われるかと思います。自分の知らない世界が、もっとある、と思われるでしょう。
これは、ありえない話ではありますが、未知の知とは計り知れないもので、例えば、この全宇宙のことを理解できたとしても、未知の知というものに苛まれ、まだ未知なるものがあるのでは、と思うことになるでしょうが、未知の知とは形而上学的なものであり、知識と無知の知はグラフや何かしらの形に表すことが出来ますが、未知を知ることすら、未知の知とはどれほどまであるのかを知ることは、未知があることすら未知であり、宇宙全てを知ることが出来ても、決して知りえないものなのです。
重ねて言いますが、それは絶対にあり得ません。そもそも、我々日本人は、いや、日本人のみならず、バイリンガルであっても、マルチリンガルであっても、この世の言語は数千あると言われていますから、最初から数千分の一しか知っていないのです。人間は、何も知らない状態から、自分のネイティブラングウィッチを通じて得た、それでもまだ数千分の一の、そのまた数万分の一になるかと思われますが、五感から得た情報でしか物事を知りえないので、我々は出来る、知っていることよりも、圧倒的に知らない、出来ないことの方が多いのです。その上、歴史というものがありますから、今は、宇宙は百三十六億歳と言われていますが、その全てを知ることも、ましてや、地球は四十六億歳と言われていますが、母星の地球すら、例え生まれてから死ぬまでの歳月をかけても、謎が謎を呼び、謎が果てしなく続きということは、言うまでもないでしょう。つまり、未知の知とは、自分の無知を、更に自覚させることにあり、私は、現代の情報社会で生きる上で、なくてはならない知識だと思っています。我々は、主観から得た情報が全てですので、それが、二次情報、三次情報のものであっても、人間とは信じたいものを信じる生き物でありますから、因みに、ジョン・F・ケネディの逸話ですが、ある事件を調査させたところ、自分の思い通りの結果にならなかったことに激怒したと聞き及んでいて、このように、人は自分を過信するか、それ以外を信用するか、といったものに分けられ、脳とは、至極単純で、プラシーボ効果というものがある通り、何を信じれば良いのか、何も信じられない、と言った声もちらほらあり、私はその同志として、未知の知というものを提言したいのです。
そもそも、何を信じれば良いのか、という疑問は、遥か昔からある最大最古の難解問題でした。そこで神が生まれ、哲学が生まれ、学問が生まれ、人々はより高度な知能を持ち合わせるようになり、現代へと繋がっているわけですが、いつまで経っても、何を信じれば良いのか、そして、幸せとは何か、いや、私がただ単に知らないだけの可能性が大いにありますが、ただ少なくとも、それらに対する、それらしい答えは出てきていないように思われます。とうもの、私は常々思うのですが、少なくとも、現代で幸せではない人は、個人的な意見ですが、視野が極端に広いか狭いかの、二通りに分かれると思っています。そしてこの現代は、インターネットという巨大な深淵を覗くことが出来、更にはその深淵を調査することも可能なわけです。私は、その深淵をただひたすら、無鉄砲に奥へ進んでいくものと、その深淵にいつ落ちるのではと怯えているものこそ、先ほど言った二通りに当て嵌まると思います。そして人は自分の信じたいものを信じる訳ですから、そしてそれが全てだと思い込んでしまうのは、最早そういう生き物であると言いようがないです。しかし、ここに未知の知というものを知っておくと、私が思うに、自分の程度を知れると思うのです。言うなれば、良くも悪くも、戦略的な諦めを実行できると思うのです。深淵を無理に進む必要がないと考えるもの、そもそも深淵に近づかず迂回すればよかったなどと考えるもの、十人十色だと思います。私は、未知の知というものが頭に侵入してきた時、これほどまでに広い世界で、ただ一人私が何をしても、その影響力など無に等しいと感じ、しかし、バタフライエフェクトみたく、きっといつの日か、何処ぞの何某に影響しているのかと、なるべくしてなるのだからと、なんて言えば良いのでしょうか、諦めとも、希望とも、願望とも、思っています。即ち、やはり行きつくところ、主観こそ全てという考えは、あながち間違いではないのでしょう。私がこの世界をどう見ているかは、例え、文字の羅列を網羅した所で、即ち未知の知、その考えが真意に伝えることはおそらく不可能でしょう。その上で、では幸せとは何か、などと、抽象的な、哲学的なものを定義する際、何をどう考えて信じれば良いのでしょうか。私が思うのは、それは自分で考えるべき、考え抜きべきなのだと思っています。
作品名:没、乃至没集 作家名:茂野柿