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没、乃至没集

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頭の悪い時(現今もそうだが)に書いた、坂口何某に感化された愚


私は一介の読書好きとして、それなりに本を読んでいますが、同時に趣味で小説も書くもの嗜んでいまして、これはいけない、本をたくさん読むといけない、と思いました。全て先に書かれている、私の思惑が、私が編み出した策が、もう既にあると。しかし、哲学者の末端に位置する私は、これがかの有名な集合的無意識であることを知っていて、それでいて、アイディアを生業とする芸術家の威を借る私は、これほどまでに恐怖を覚えたことはなかったのです。しかしそれは非常に愉快なことであります。私は、自分が天才ではないと知っているからです。私には限りがあると、そう考えていまして、私はたった二十一年生きていますが、生まれた時代や遺伝子は違えど、人間同じ状況に置かれると似たようなことを考えるということは、薄々気づいていましたが、それも最近、おおよそ外枠の風貌は似ても似つかぬものだとしても、実はその骨組みは遠からず似ているものだと確信しつつあります。というのも、果たして私の意思というものは存在するのか、自由意思はあるのかという疑問は殆どなく、むしろ意思とは外部的要因による後天的かつ流動性な意思と、遺伝による先天的で不動性な意思が練り上げられた結果できた、不動性も流動性も兼ね合わせる、言うなれば液体なのに比重が重い水銀みたいなものだと思っており、昔から変わらない意思と状況によって変わる意思は、二律背反に見えてそうではないと考えています。それを例に挙げるとすれば、ムショから出てきた私の男友達は、出てきた当初は、それは自分の目を疑うほど、派手な見た目に反して、謙虚で、物静かで、佇む僧侶の目をしていて、やはり人間、自分を見直すには地獄へ堕ちた方が良いと確信に迫っていたのですが、ほんのつい先日、ムショから出てきて数年目と言った具合でしょうか、怪しげな、というより信じる余地もない、投資だったか投機だったかの話をふっかけてきたので、多分死ぬまで馬鹿は治らないのでしょう。そして現代では、HIPHOPという音楽のジャンルも生まれていて、私はよく好んで耳と脳に入れるのですが、やはり歌詞を見ると、ほれみろ、音に乗せるか、紙に乗せるか、それだけの違いで、皆同じこと考えているではないか、そう言わざるを得ないのです。ただもちろん、全部が全部似たり寄ったりではないのは承知しています。私は無意識に似ているものを探しているだけの馬鹿に過ぎず、そして、無意識に見つけ出したのを全てと思い込んでしまう脳も、また馬鹿であり、やはりそこの自覚からしないといけないのですが、脳というものは頭が悪いにも関わらず頭が良いものよく分からない臓器でありまして、それこそ、詐欺の話をふっかけてきた馬鹿な友達程純粋無垢なものであり、何度でも染め直せる一枚の巨大な着物みたいなものであると思っています。しかし、いくらその着物に色を被せても、その着物は生涯を通じて同じであるため、私は、着物の色が本体だと勘違いしている人に言いたいのは、色が変わっても同じ着物のように、意思とは絶対に腹の底に落ちていて、それに気づかず流動性の意思を己と意思と思ってしまうのは間違いだということを言いたいです。
その上で私がこの世の創作物に目を向けると、どことなく法則性があるように思えてしまうのは、やはり私は自分の都合の良い所だけを見て生きているのではないかと思えてしまい、しかし同時に人間は、人間のみならず動物は、主観を共有することが殆ど不可能であり、仮に主観を共有できたとして、一体全体どこのどいつがその共有した主観の軸となるのかと考えると、やはり私が見る世界が全てなのではないかという考えに至り、年配の方が尊敬されるに値するのは、同じ主観とは言え、見てきた年数というのは計り知れないもので、それはセンスに似ていると思っており、今までの記憶を集計して一番良いものが、それなのではないかと思い、そのためにはいろんなものを仰山経験してきた人こそ、偏に年を召しているから尊敬されるのは大間違いですが、人の上に立つべきなのではないかと思いますが、それはあくまでも若者の道を記し示す役割だと思っており、もちろん若者の方が新しいものに敏感ですから、新しいものを吸収する柔軟性と、古き良きものと比較、統合してみるその俯瞰力、不動性の意思がまだ確立され切っていないものと、流動性の意思が不動性に呑まれつつある二つのものが合わさったものこそ、我々社会の本来あるべき姿なのではないかと思います。そして仮に、主観を共有することが可能になったのなら、それは果たして、いや、例えば色盲の方の場合を例に挙げますが、主的に見えている世界とは必ず誤差がありますので、主観を共有した所で新たな世界が広がるだけで、誰が正しいとか、間違っているとか、そういうのよりも、むしろ選択肢が余程増えるだけなのではと考えています。客観的に、とはよく言いますが、それは想像力が秀でたものが、あくまで主観的に、己の考える客観というものに頼り、もしくは他人の思考をトレースして、見るだけのものであって、それは募る所、主観的に客観視しているだけなのではと疑問を抱いています。そして自分の見てきたもの、主観こそ全てという考えに至った私ではありますが、後に現象学という似た考えがあるのを知り、胡蝶の夢という考えが最も近い考えを持っていることを確信しました。
私は決して哲学が詳しいというわけではありませんが、ぱらぱらと哲学書を覗くと、まるで私は天才なのではないかという幻想に陥り、というもの、現象学然り、似たような考えを持つものが遥か大昔にもおり、仲間を見つけたかのような、宝を見つけたかのような、しかし現世にはいないのかという失墜した気分があり、その哀愁混ざり合った、高みへ昇り切ることの出来ない中途半端な高揚感と、今を生きる者こそ今を変えることが出来る力を持っていると信じてやまない私は、この世に授けられた救世主なのではないかと妄想をしてしまうのです。当然そんなことはなく、そしたら神はいないか、余程の大馬鹿者かということの証明になってしまうので、神は信じていませんが、不図冷静になった私は、自分にそう強く訴えかけました。そもそも救世主などいるわけがないと考えているのですが、それでいて、私が救世主だと思ってしまったので、やはり文学と哲学は行き過ぎると毒なのでしょう。
そして私は、ソクラテスという方を知りました。私とソクラテスの舐めそれはよしますが、無知の知というものを知ったとき、それは完璧ではないと思ってしまったのです。正確には、人間には三つの知があると、あるべきだと、思ったのです。そしてそれは、我々は主観を共有することが出来ませんが、その三つの知は、共有可能なので、主観的に客観視することも、大いに容易なことになると信じています。
三つの知とは、知識、無知の知、未知の知だと思っています。
これは聖書でも言えることですが、人間、例え話をするとき、何故かよくリンゴを用いてするため、そして私もこの三つの知が脳内に入り込んできた時、りんごで説明するのが良いと言われたので、そうすることにします。
作品名:没、乃至没集 作家名:茂野柿