裏表の研究
無意識に避けていたことで、相手もこちらが何か自分たちに対して罪悪感を持っていると感じたことが、苛めに繋がったのだとすれば、苛めがなくなってきた理由も分からなくもない。
ちょうど、そんな時、苛めの対象になる相手が出現したというのは、純一郎にとってはよかったことである。苛めの対象にされたやつにはたまったものではないだろうが、心のどこかで、
――俺と同じ思いをすればいいんだ――
と思っていたことだろう。
その頃の純一郎は、
「世の中には苛めっ子と、苛められっ子しかいないんだ」
と思っていた。
苛める側も苛められる側も、人数は決まっている。すべての人間がどちらかに属すわけではないだろうが、傍観者というのは、苛めっ子に属していると思っている。自分が苛められている間は、傍観者も苛めっ子だという意識をハッキリと持っていたが、いざ自分がいじめられっ子ではなくなってくると、傍観者になってきたことに気付く。だが、いじめられっ子ではなかった子が最初から傍観者だったのと、いじめられっ子が苛められなくなって傍観者になったのとでは、意味が違っている。そうなると、最初に思っていた、
「世の中には苛めっ子と、苛められっ子しかいないんだ」
という思いは通用しなくなり、自分の考えに矛盾が生じてきた。
だが、自分が苛められていた頃を思い出すと、
――相手がどういう理由であれ、傍観していて苛めにも参加しない。かといって苛めを止めることもなく、苛められているわけではない――
という客観的な目が、正直な気持ちとして映ったのだ。
その頃からであろうか、
「世の中、裏か表しかない」
と思うようになった。
傍観者のように、曖昧な連中が裏なのか表なのかは、その時々の状況によって違ってくるだろう。
そんなことを思っていると、自分のクラスでのランキングが低かったのも、なぜなのか分かってきたような気がする。
自分はクラス委員を押し付けられたりしたのは、きっと皆にとってどうでもいい存在だったからなのかも知れない。そんな曖昧な存在の自分を皆が高評価はしていないということだろう。
考えてみれば、今まで苛めてきたやつに対して急に尊敬の念が浮かぶわけもなく、だからこそ、クラス委員に推薦されたわけではなく、押し付けられたと思うのだし、逆にそんな嫌いなやつにクラスメイトを押し付けることもないだろう。つまり、好きでも嫌いでもないどちらでもないやつに適当に押し付けたという感じなのだろう。
――こいつなら、なんだかんだ言ってもやるだろう――
という程度のものだ。
嫌いでもなければ好きでもない。マイナス要因もなければ、プラスでもない。そうなると考えられる評価は、
「限りなくゼロに近い」
というランクになっても仕方がない。
そうなると、本当に嫌いなやつはマイナスになると考えると、純一郎が最下位でもブービーでもない中途半端なのも分かるというののだ。
点数が低かった人間に限って、文句をいうもので、最下位やブービーの人間は、この評価には当然不満だったようで、ショックを受けるというよりも、文句を言いたいという雰囲気だった。だから嫌われるのだろう。
文句の言い分もまるで子供だった。
「どうして、俺が最下位なんだ。俺よりも低いやつはいっぱいいるだろう」
という言い方をする。
まずは、どうして最下位なのかという理由を聞こうとするのであれば分からなくもないが、いきなり誰かと比較しようとする発想が、そもそも他の人と感覚がずれている証拠ではないだろうか。
さすがに自分が最下位だという事実を突きつけられて、驚愕するのは分かるのだが、文句をいうならいうで、何を根拠の文句なのかを、もっと整理して普通ならいうものだろう。そんな連中を苛めっ子がどうして苛めようとしないのかも、不思議だった。
しかし、いじめられっ子になりそうな子が苛められないという観点から考えた時、
――そうか、苛めたとしても、そこで何かが分かるわけではないんだ――
苛めても、何か成果でなければ、苛めたことに対して、ただの苛めだけで終わってしまう。
純一郎のように、苛められたことで、いずれ何かに気付いて、仲良くなることができれば、苛めっ子にも苛めに対しての大義名分があるというものだ。苛めっ子には苛めっ子の大義名分が存在し、苛めることへの免罪符があるに違いない。だから、いじめられっ子というのは、
「苛められるには苛められるだけの理由が存在する」
ということになるのだろう。
「人間言われているうちが花だ」
と、大人は言われるらしいが、その時は知らない言葉だったが、大人になってその理由にもピンとくるようになるのだろう。
要するに、
「言われなくなったり、まわりから相手にされず、苛めにも遭わなくなったら、そこで成長もないので、それから先はないも同然だということになるのだろう。
ランキングが最下位や、ブービーのやつが、文句を言ったとしても、考えてみれば、投票は個人個人の票の積み重ねなので、主催者に言っても結論が出るわけではない。
だが、それが分かっていながらその時の主催者は、毅然とした態度でその質問に答えていたのが印象的だった。
その答えがどのような信憑性を持つのか分からなかったが、態度が毅然としていたことで、信憑性が感じられてくるから不思議だった。彼らの言い分としては、
「それはきっと皆が総合的に判断したからだろうな。俺たちだって、総合的な判断をして投票したのさ」
と言った。
「俺たち」
という言い方を主催者の一人はした。他の人に意見を求めることなく、即座に「俺たち」と言ったのだ。
それは、主催者皆が気持ちを一つにして、このランキングを取ったということを意味している。彼らには彼らなりのモラルがあったのだ。そう思うと、ランキングを取るということも悪いことではないようにも思えてきた。
もっとも、ここでいう総合的というのがどういうことなのか、その時の純一郎にはよく分かっていなかった。
我にとっての小説
中学に入ると、すでに自分のまわりには人がいなくなっていた。自分のことをクラス委員に推薦するようなやつすらいない。面倒なことを押し付ける相手としての存在ですらなくなっていた。
ただ、それはまわりが自分から去っていったわけではなく、自分がまわりを寄せ付けなくなったのだ。小学生の五年生の頃クラス委員をやった。学校行事としての毎年のことである運動会や音楽会などの、その時々の委員を決めたり、随時にクラスで何か決定事項がある時など、もう一人のクラス委員と二人が議長になってその決定に携わらなければいけなかった。
クラス委員は基本的に二人で、男女一組と決まっていた。彼女の方も自分から立候補したわけではなく、女性陣の中から推薦されて嫌々させられていたのは、純一郎と同じであったが、相手の男子が純一郎になりそうになると、それまで反論しなかった彼女が、急に学級委員になるのは嫌だといい始めた。