短編集88(過去作品)
少しだけの立体感
少しだけの立体感
皆さんは、自分の家がそこにあることに疑問を感じたりしていませんか?
毎日、出勤帰宅を繰り返しているところなので疑問を感じるわけがないと思っているでしょうが、ここに一人、以前から漠然とだが、特に最近不思議な感覚に襲われている男がいる。
年齢的には四十歳近く、結婚して八年が経つが、結婚してから入った新居からは引っ越したわけではない。子供がいないので、ある意味ではずっと同じ環境に親しんできたところなので、疑問を感じる予知などないはずである。一体どうしたというのだろう……。
名前を関口勉といい、平凡なサラリーマンである。
寒かった冬が終わり、そろそろ桜の季節がやってこようという時期、その年の冬は、寒い時は雪が降り積もり、普段の寒さを暖かいと錯覚するくらいだった。
住宅街を抜けて、その先にあるマンションに住んでいる。駅からは少し遠いが、昼間であれば住宅街を通るバスがあるので、女房の聖子には不自由をさせることはなかった。
駅までは徒歩で二十分程度、仕事で遅くなることもしばしばだったが、住宅街の街灯が明るいのと、道も比較的広く、しっかり歩道もあるので、危ないことはなかった。女性の夜歩きでもない限り、男性なら何の問題もない。
その日は仕事で遅くなってしまった。遅くなることはある程度予感していたので、女房には最初から伝えておいた。確かに年度末ということで、どこの会社も遅いのか、終電近くになっても。疲れ果てた顔のサラリーマンが多かった。中にはアルコールの入ったような連中もいたが、それは一部だった。
駅に降りると、タクシー乗り場には長蛇の列。電車の到着と同時に一気に改札を抜ける姿が見られたが、
――それにしてもよくここまで乗っていたものだ――
と思えるほどの列である。
――最後部の人はいつまで待たされるんだろう――
と自分には関係ないのに、余計な心配をしてしまった。
実はそれも昨日の天気予報を見ていたからである。
今年は三月も終わろうとするのに、異常気象というべきか、まだ雪が降る日があるらしい。数日前の天気予報で、月末近くにもう一度雪が降るというのを見て、
「いやね。どうしちゃったのかしらね」
と呟いた女房の声を横で聞きながら、
――これがすべての人の考えを凝縮した言葉なんだろうな――
と考えていた。
電車に乗る時はそれほど寒いとは感じなかったが、電車を降りて駅を出ると、寒さが身に沁みるようになった。風が出てきたからだろう。住宅街があるから駅があるようなもので、他に目立ったものは何もないので、駅前にも店が数軒あるだけで、ちょっと歩いただけで田舎の風景が広がるとことである。
いくら街灯がついているからといっても、まわりの暗さを十分に補うことができるわけではない。却って明るさを不気味に吸収してしまうほどの暗さが層を成して襲い掛かってくるように思えてくる。
昼間であればのどかな田園風景も夜のしじまでは恐ろしさを含んでいる。駅前から歩き始め、あれだけたくさんの人がホームから出てきたにもかかわらず、すぐにまわりには誰もいなくなる。あれだけタクシーを待っている人がいたにもかかわらず、大きな道を行き交う車の数も実に少ない。
まわりに何もなくなって急に感じるのが突風にも似た横風である。
――雨でも降っていれば傘を差せないかも知れないな――
と思えるほどの横風が容赦なく吹き付ける。
耳鳴りのように響く突風の音を聞きながら空を見上げると、薄暗い中に分厚い雲が幾重にも重なっているのが見える。その雲が風邪に煽られ、ものすごい勢いで流れていくのを見ていると、耳鳴りが轟音に変わってくるのを感じるのだった。
――本当に雪が降ってくるのかな――
疑問に思っていると、ポツポツと冷たいものが顔に当たるのを感じた。
目の前を白いものが舞ってくるのを感じる。勢いよく落ちてくるわけでもないのに、痛く感じるのは、冷たいからだろう。頬に当たって溶けていく感じが想像できるようで、想像しているだけで冷たいのだ。
雪の数が途端に増えてくる。最初は強い風なのに、それほど吹雪いている感じではないことを、
――どうしてだろう――
と思ったのだが、次第に吹雪いてきているのを感じると、体感温度が一気に下がってくるのを感じる。傘を持っている手が痺れてくるようだ。冷たさで感覚が麻痺してきて、赤くなっているに違いない。暗い中で確認はできないが、ほぼ間違いないだろう。
横殴りの雪である。最初に感じた痛さなど、比べ物にならないほどで、まるで切るような痛さが顔面全体にいきわたっている。耳たぶから顔の感覚が麻痺してくるのも時間の問題だろう。
最初に雪を感じて少ししか経っていないのに、気がつけば一気にまわりは銀世界と化していた。まるで別の世界が開け、入り込んでしまったかのようである。真冬ならそんなこともあるかも知れないが、まもなく桜が咲こうという時期、信じられないという気持ちでいっぱいだ。
行き交う車も、後ろから追いかけてくる車もほとんどいない。街灯が吹雪の中、霧が掛かったようになっている。見える範囲はほとんどなく、見えてもおぼろげにしか見えてこない。
――どこを歩いているのだろう――
風の方向は、数秒ごとに変わっているように思うが正面だけを見て歩いていると、前から当たっている雪しか感じないので、まるで吹雪のトンネルの中をすごい勢いで突破しようとしているみたいだ。
しかし、歩き始めてしばらくすると、次第に風が緩やかになっていた。雪がポツポツと降るようになり、さっきまでの吹雪がウソのようだ。時計を見ると駅を出てから五分しか経っていない。だが、歩いてきた感覚はゆうに十五分経っているように感じる。実際に歩いた距離も五分で来れるようなところではない。住宅街をいつのまにか抜けていて、家の近くまで来ていたのだ。
――結構早く歩いたんだな――
自分でも感心してしまう。まさかこれほど早く歩いていたなど、自分でも信じられなかった。よほど吹雪に抵抗するかのように強い意志で歩いてきたことだろう。
後ろを振り返ると、住宅街が真っ白になっていた。間違いなく吹雪の中を歩いてきた証拠なのだが、今度は前を見ると暗闇が支配している。
――前は真っ黒、後ろは真っ白。白と黒の世界だ――
思わず、川端康成の小説「雪国」の有名な冒頭を思い出した。
――トンネルを抜けると、そこは雪国だった――
真っ白な雪が自分を通り抜けるように作っていた吹雪のトンネル、まさしくそこを抜けると、待っていたのは暗黒に支配された夜の世界だった。「雪国」の冒頭とは、ちょうど逆である。
それにしても時間の感覚がまったく麻痺していた。さらにあれほどの吹雪を抜けてきたのにあまり疲れを感じていないのも不思議である。追い風なら分かるが、前からの風だったのにである。
吹雪の中を歩いたという経験ではないが、前にも同じくらいの距離の道で、不思議なことがあるものだという経験をしたことがあった。実家はもっと田舎にあるのだが、まわりが田園風景だというのはほとんど今と変わりない。
作品名:短編集88(過去作品) 作家名:森本晃次