Slacker
牧人の家の『神様』は、水晶玉だった。それは、『神様』と各々の家庭が会話するための窓で、入信するとひとつ支給された。うなされているときに、時折聞こえる『光なんかない』という言葉。あれは四年前に、業を煮やした牧人が両親に向けて放った言葉。『光を見たことがない』かわいそうな息子のために、両親はその夜、豆電球を水晶玉の後ろに置いて光らせて眠った。そして、それが火元になって火事が起き、家の外でふてくされていた牧人以外の全員が死んだ。現実と思想がごちゃ混ぜになった結末。
わたしの一家も、崩壊度合いは似たようなものだった。ただ、牧人の両親が豆電球を置いたのは、狂っているにせよ、息子への愛情からだ。そんなハートフルなエピソードは、わたしにはない。本人の前でこの話を繰り返したくないのは、悔しそうな表情を読み取られたくないから。
会社勤めは、朝九時から十七時半まで、周囲にアンテナを張り巡らせる時間が、きっちりと続く。技術系の人や営業の人には、また違う一日が待っているのだろう。少なくとも、わたしの一日は他人の『便利さ』のためにある。例えば、ウェットティッシュが常に新鮮な状態で一枚掴めるように置いてあったり。電話を取ったときの応対は、得意先からの評価だと、第一声で『はいっ』と言う黒髪ストレートの子の方が高い。第一声で『はいっ』と言うのは香山さんで、黒髪ストレートはわたしだから、ほとんどの得意先の人は、二人の人間の区別がついていないということになる。電話での印象は香山さんの方が良くて、見た目はわたしの方が好印象を与えるのかもしれない。
十時半ぐらいになると、仕事がひと段落した社員たちが、休憩室に集う。そこで華の役割をするのは、香山さんの仕事。空いている手で髪をくるくる巻きながら、聖徳太子のように社員の話に付き合うけど、実際には嫌で仕方がないらしい。隣の席で電話を終えた香山さんが、時計を見て困ったように眉を曲げた。例の十時半が近づいている。
「京子さん、今日は一緒にどうですか?」
「どっちかが、電話に出なきゃ」
わたしが『真面目』と評されるのは、こういう発言が誰かの小耳に挟まれているからだと思う。意識して言っているわけじゃないけど、上長が通るタイミングだったり、変に間がいいと感じるときもある。香山さんが変な風に受け取ってなければいいけれど、派手な化粧のせいで本当の表情は良く分からない。
とにかく、不要な揉め事は避けたい。火種を見つけたり、頭から火の粉がひとつでも降ってきたら、牧人と出会うよりはるか前の『北見家』に引き戻されてしまう。あの家では、正解の幅は毎回狭くて、人がひとり通れるギリギリの幅しかなかった。少しでもはみ出したら、わたしの持ち物が凶器になって飛んでくる。わたしを引っ張り出すために、次の作戦を練っているらしい香山さんが言った。
「私さ、今日は体調的にマジできついんだ。今日だけでいいから。身代わりになってよ」
その言葉を聞いて、わたしは立ち上がった。椅子が後ろに跳ねるように下がって、加湿器にぶつかって甲高い音を鳴らした。香山さんがぎくりとして、目を見開いた。わたしは椅子と加湿器と香山さんの全員に気を遣いながら、手を合わせた。
「ごめん、ちょっと考え事してて。オッケー、分かった」
十時半きっかりに、わたしがコーヒーを淹れてテーブルの傍に立っていると、わいわいと話し声が聞こえてきて、高里さんもその中にいた。
「おー、北見さん。珍しくない?」
そう言って笑顔を見せる高里さんの周りにいる同期の目は、発作でも起こしたように忙しなく動いている。高里さんは、昨日わたしを飲みに誘って、成功したということまで仲間に報告済だろう。特に、総務部の八野さんとは仲がいいから、ほとんど一緒に飲みに行ったぐらいには、昨日のサシ飲み会の話は八野さんの耳にも入っているはずだ。
「あまり休憩とかしてるイメージないもんね」
高里さんはそう言うと、自分のマグカップにインスタントコーヒーの粉とお湯を注いで、ぱちぱちと音を鳴らしてかき混ぜた。確かに、休憩はしていないかも。役割は、自分以外の人間にとって『便利』であることだから。
「顔色、悪いですか?」
わたしが言うと、高里さんは答えを持ち合わせていなかったようで、少し困惑したような表情を浮かべた。
「いや、そんなことないけど」
香山さんの口から『身代わり』という言葉が出るとは思わなかった。それを聞いたときに突き抜けた感情の傷口は、ブラインドから差し込む太陽の光ぐらいでは隠せていないように感じる。
麻子は三歳年下。わたしより頭の回転が速かったけど、その分空回りすることも多くて、北見家のルールに抵触するのは、大抵麻子の方だった。『お姉ちゃんのほうが、三年長く耐えてる』。十五歳になったわたしは、高校への進学が決まっていた。面談のときに、担任はわたしと目を合わせようともしなかった。怪我や虐待の痕跡を見つけてしまうと、見返すわたしの目から逃げられなくなるから。
「君たち、距離が近いぞー」
八野さんがわたしと高里さんの間に割って入るように、自分のマグカップを手に取った。
高里さんが顔をしかめながら言った。
「なんだこいつ」
「指導だ、指導」
カフェインが苦手な八野さんは、氷と共に麦茶を入れると、ホットコーヒーを飲むわたしたちを見て、笑った。
「暑くないの?」
高里さんまでホットコーヒーを飲んでいるのは、わたしが昨日、冷たい飲み物が苦手だと言ったからだろうか。わたしは、高里さんに言った。
「昨日は、ありがとうございました」
この人たちは、全員が二十六歳。リクルートスーツを着て入社式を迎えたのは、三年前だ。それから何が変わって、今日から先はどのように変わっていくのだろう。十分程度の雑談が終わって自席に戻ると、お菓子でハートマークが形作られていた。香山さんの気遣い。パリピのコミュニケーション能力は高い。この人も、例えばあと三年もすれば、どこへ行くのだろう。今どき、短大卒を正社員で採用するのは珍しいし、ここの社員を手堅く続けるのだろうか。
『お姉ちゃんは、三年長く耐えてる』
麻子が自分を慰めるように、使いこなしていた言葉。わたしのことを、自分の三年先を占う水晶玉のように見ていたのかもしれない。間違えるたびに食器が飛んできて、補充されることはなかったから、わたしが高校に上がる前の年は、テーブルの上に投げつけられた料理の塊を手で掴んで食べる羽目になっていた。
夕方になって、直帰できなかった営業が戻って来ると、休憩室を占領し始めた。それでも、朝に香山さんから聞いた『身代わり』という言葉が、頭に残っていた。会社からの帰り道、香山さんが言った。
「私、体調悪いって言ったけど。京子さんの方がヤバそうに見える」
「そう? 大丈夫だよ。ありがと」
駅が人で溢れていて、香山さんは細長い首を伸ばすと、停まっている車両に群がる人だかりを見て、呟いた。
「人身事故かも」
「えー、分かるの?」
「多分。みんな、めっちゃ写真撮ってるし」