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〈機能的アイソメトリックス〉と〈昨日は今日の物語〉の間にある推理法


 
ペプシが自分の会社のコーラと、名は出さないがたぶんあれであろうコーラを一般人に飲み比べさせ、「どっちのコーラがおいしいか」というCMをやったのはおれが高校生の頃だが、グリ森事件のさなかだったかそれとも終息した後だったか。ちとわからんがあのときかなり、ペプシはシェアを拡大させたものと聞いた。
 
この成功の第一の理由は、
「45パーセントの人がペプシを選びました!」
とやったことであろう。45パー。これを見て、
「なんだ、敗けているんじゃん。わざわざうまくないと宣伝しているのと同じじゃないか。バッカじゃねえの」
と、クラスの中に言う者がいた。グリ森事件で森永のお菓子に毒が入れられたとき、
 
「お前、どうしてそんなもんが食えるんだよ。死ぬぞ、死ぬ! 絶対に死ぬ! テレビで推理小説家とかが、『まだ店頭にあるお菓子には必ず紙を貼らないできれいに封を閉じてある毒入り菓子がたくさんあるに違いありません』と言ってるのを知らないのか! だから食ったら死ぬんだよ!」
 
と言ったのと同じやつらだ。例の再現ドラマでも、上川隆也が演じるミスグリ加藤譲が飲み物を買いに立ち寄った店で、
 
   *
 
画像:「おばちゃん、ここ、森永置いてあんのやね」
 
加藤「おばちゃん、ここ、森永置いてあんのやね」
店主「頑固に置いてまんのや。(笑)ウチみたいな店は大丈夫やろ」
 
画像:NHKスペシャル『グリコ・森永』番組タイトル
 
なんて話す場面があるが、「九割の減産」ということは残り一割のラインが〈禍〉のさなかでも稼働を続けていたわけである。
 
45パーセントの人がペプシを選びました。とあのCMはやった。おれは当時に、この数字は後で逆転するのかな、と思いながら見ていたが最後まで変わらなかったと思う。だがそれ以前、ペプシのシェアは何パーセントだったのだろうか。一割も増やせたのなら大増産だったわけで、あのCMは成功である。そしてあれのうまいところは、コカ・コーラに劣るような言い方を自分でしていることである。あれがむしろ、ふつうの人間に比べてノリの違っている人種の心に響くところがあった。
 
つまり、ちょっと通(つう)ぶってみたい者だ。「大多数の人間はコカ・コーラがうまいと言うが、オレは違いのわかる男だ。そのオレが選ぶコーラはペプシだぜ」というわけである。そんなことを言ってみたい人間が買った。だから売れた。あのCMはそこがうまくて作った人間が利口なのがおれにわかったが、クラスのそいつに説明してやろうとしても、
 
「コカ・コーラの方がうまい。コカ・コーラの方がうまい。コカ・コーラの方がうまい」
 
という調子で聞く耳持たぬのが見てわかったのでやめておいた。
 
カルビとロースはどっちがうまいか。馬場・猪木もし戦わば。コカ・コーラとペプシ・コーラ。そしてグリコと森永のキャラメル。
 
比べてどちらがよりおいしいか。興味深い問題である。そして浅草の雷門と、大阪は道頓堀のグリコ看板。
 
こんにちは、こんにちは、世界の国からこんにちは。海外から日本に、〈コンニチワ〉と〈アリガトウ〉だけ覚えてやって来る旅行者にとって現物を自分の眼でより見たいと思うのは果たしてどちらであろうか。これは、興味深い。浅草の雷門は有名だ。世界に知られるスポットだ。けれどもどんなものであっても、知られなければ知ってもらえず、そこに存在しないのと同じになってしまうために、人に見たいと思ってもらえぬ。昭和の時代にグリコのネオン看板は、海外にまで知られるものでは決してなかった。
 
平成元年。『ブラック・レイン』。この映画にあれがドドンと映し出されるまでは――。
 
アフェリエイト:ブラック・レイン
 
という、さて、なんだっけ。前回に一万円札で十億円は、130キロの重さになるという話をしたね。浅田次郎・著『初等ヤクザの犯罪学教室』(幻冬舎アウトロー文庫 1998・単行本1993)という本に、
 
   *
 
 一千万円と簡単にいいますが、いざ持って逃げるとなると、広辞苑を一冊抱えて走るようなもので、まったく容易なことではありません。
 
画像:初等ヤクザの犯罪学教室表紙
 
と書いてある話もしたが、一千万円は1300グラム。対して広辞苑てのは重さ4、5キロあるんちゃうかな。
 
って、別にケチをつけているわけではなくて、おれはホラ見てこれこの通り、
 
画像:辞林21
 
〈辞林21〉という、広辞苑より小さいけれど1キロ計で量ることのできない大きめの辞書を持ってんですよ。普通の辞書が700グラムで、たぶんその倍くらいある。そしてこれが横書きで、開いてみると、
 
画像:帰納的推理
 
こんな感じ。何が言いたいかというと、
 
画像:小説帝銀事件解説282-283ページ
アフェリエイト:小説帝銀事件
 
これだ。セーチョーの『小説』の巻末解説なのだけれど、『小説帝銀事件』でなく『日本の黒い霧』を解説していたりする。
 
松本清張は『黒い霧』について人からさんざんに、「悉く米軍の謀略というオチになっているので曲がない」とか「変化がない」と言われたとして、それに対し、
《飽くまでも帰納法的な結論に終始するほかはないのである。(略)『何でもかでも米軍の謀略にする』予断で書いたのではないのである》
と書いていたとして、解説者の保阪正康とかいうのが賛辞を贈っている。しかし、おれが横書き辞書で【帰納的推理】を引いたものを見てくれたまえ。それには、
 
《蓋然的な確かさしかもたない。》
 
と書いてあるではないか。
 
帰納法は蓋然的な確かさしか持つことができない。つまりなんの確かさも持たない。それは予断によって為され、集められた材料の中から持論に都合のいいものだけを拾い、そうでないものを無視する推理法だからだ。誤った推理法であり、トンデモ推理法であり、陰謀論者が陰謀論者であるがゆえに正しいやり方と見なす推理法。
 
画像:中沢健・上坂すみれは天使みたいな
 
それはすなわちこういう人が正しいと見なす推理法。《飽くまでも帰納法的な結論に終始する》というのはつまり、言い方を変えているだけで、《何でもかでも○○の謀略にする予断で言ったり書いたりする》というのと意味は同じなのである。松本清張は自分で自分を、上坂すみれが大好きな中沢健(たけし)と何も変わらぬ人間だと言ってしまっているのだった。
 
画像:小説帝銀事件解説284-285ページ
アフェリエイト:小説帝銀事件
 
さて、解説はこう続く。『黒い霧』はフィクションでないが、『小説帝銀事件』はフィクション。新聞記者の目を通して事件を描くかたちを取っているがゆえにフィクションという論調であるが、しかしそんなこと言ったって、これが書いている通り元記者で今は論説委員というのが元警察官僚とちょっと言葉を交わすところが最初にあるというだけで、到底「フィクションの体裁を取ってる」などと言えるものではない。だから以前見せたように、読んだ者から、
 
画像:小説帝銀事件レビュー
 
こんなことを書かれたりする。
 
のだけれどもさて一方、〈NHKスペシャル〉として今から10年前に制作された、
 
作品名:端数報告3 作家名:島田信之