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端数報告2

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ハダカじゃないけど、最近だと、
 
アフェリエイト:ビブリア古書堂の事件手帖
 
これ見たときに、「ハハハ、これは売れるだろうな。内容に関係なく」と思った。古書と言えばおれの手元に『オタク学入門』という本があり、著者のオタキング・岡田斗司夫がこんなことを書いている。長くなるが引用しよう。
 
   *
 
 アート業界には「文脈を押さえる」という言葉がある。
 今までいろんな作品が発表されてきた。その個々の作品の個性や関係性を考慮しながら、最新の作品を捉える、という意味である。
 何を継承していて、何が新しいのか。
 こういう見方、つまり「文脈を押さえて」いないと、作品を理解することもできない。
 ぼんやり見ていたのではアートは理解できない。
 ただ、目に映るものだけを見るだけではいけない。
 これはあまり語られることのない真実だ。アート業界の人はすぐに「ただ、見ればいいんです。素直に感じればいいんです」とかいう。もちろんウソっぱちだ。素人相手のメクラマシだ。「文脈を押さえる」ことこそ、アートの本質なのだ。
 アニメにも、やはり文脈を押さえて見ないと理解できないことがいくつもある。
 80年代半ば、それまで存在しなかった店舗・ビデオレンタル店が日本中に氾濫した。それと同時にオリジナルビデオアニメブームが起きた頃のことだ。それまでアニメなど企画したこともない会社まで次々とオリジナルアニメを作りはじめた。
 東芝EMIという会社も、9000万円という大金をかけて60分のオリジナルアニメ、『ザ・ヒューマノイド』を作った。同じ頃、僕は『トップをねらえ!』というオリジナルアニメを45分で1巻あたり2500万円で作った。
 結果、『ザ・ヒューマノイド』は2000本しか売れず、『トップをねらえ!』は1巻あたり3万本以上も売れた。そのとき東芝EMIの担当に「なぜ『トップをねらえ!』は売れて『ザ・ヒューマノイド』は売れないのだ?」と聞かれたことがある。
 僕は、そのときは「見たらわかるじゃないか」としか説明のしようがなかった。
 たとえば『ザ・ヒューマノイド』の主役は、空山基がキャラクター設定している女性型ロボットだ。当時、空山基はメタリックな質感の女性イラストで大人気で、街中のポスターなどでもやたらお目にかかることが多かった。超人気イラストレーターだったから見覚えのある人も多いだろう。だから売れる、と東芝EMIの担当者は判断したのだ。
 でも、アニメファンにとっては空山基のハイパーリアル姉ちゃんなんか色っぽくもなければ可愛くもないのだ。それに比べて『トップをねらえ!』のキャラクター設定は『超時空要塞マクロス』で大人気の美樹本晴彦、こっちが受けるに決まっている。だから僕は、そのとき「見たらわかるじゃないか」としかいいようがなかったのだ。
 でも、それはアニメをずっと見続けていないとわからないことだ。どんどん絵柄が進化しつつある中で、今のアニメファンにとって可愛い女の子、色っぽい女の子はどれかちゃんとわかっていないと判断できない。
 東芝EMIの担当者は、「文脈を押さえて」いなかったのだ。
 
アフェリエイト:オタク学入門
 
と。ちなみに、空山基の画というのはたとえば、
 
アフェリエイト:空山基
 
画像:オタク学入門190ページ
 
こう。これが『ザ・ヒューマノイド』のヒロインのようです。対して『トップをねらえ!』は
 
アフェリエイト:トップをねらえ!
 
こう。おれがここで言いたいことがだんだんわかってきましたか。
 
つまり、前に書いたように、
 
「《春画ならば高く売れる》というのは弁護団やセーチョーや斎藤勝裕といった愚かな男達の思い込みに過ぎないだろう」
 
ということなんだけど。彼らは岡田斗司夫が言う〈東芝EMIの社員〉と同じだ。〈文脈を押さえる〉ことなくものを決め、《平沢がハダカを描けば高値が》という幻想にしがみついてる。
 
おれにはそうとしか見えない。春画なんてもの、『D坂』が時代設定とする大正か昭和初期――世界恐慌前ならともかく、戦後すぐに高値で取引されるわけない。数百圓が上限で、誰が描いてもそうなのであり、明日の米と引き換えに描くにはいいかもしれないが豪邸を建てる費用をまかなうものにはなりえないと見るべきだろう。
 
ましてそれが拾萬なんてバカにもほどがある。イカレた幻想にふけるのも大概にしろというものだ。
 
そしてまた、女を描くには女を描く才能が必要だ。それはそれ以外の絵を描く才能と別のものだ。細密ならば高値がつくというものでは決してない。
 
たとえばこんなものを見せよう。画面を拡大してみてください。
 
アフェリエイト:美人画づくし
 
アフェリエイト:美人画ボーダレス
 
いわゆる〈人気絵師〉の画集。岡田が言う〈文脈を押さえる〉ことの大事さが少しはおわかりになるだろうか。女を描いて高く売るにはこんな才能が必要だ。女の子画のファンがどんな絵を求めているかを頭でなく心臓の鼓動を司る神経でつかみ取り、骨の髄に沁み込ませたうえで一歩先を行く。そのうえで自分のオリジナリティを出していく。
 
それができねば評価されない。誰もカネを出して買わない。高く売れるなどとんでもない。
 
それがわかってない者が女を描いても失敗する。春画にカネを出す者は格調高くて立派(?)な絵を求めているわけではない。だからと言ってハダカの絵だからただ卑猥であれば良しとしてるかと言えば全然違う。
 
そういうものだ。そして言葉では説明できない。わかるものだけがわかるものだ。
 
それをわかってない者が女を描いても失敗する。平沢がハダカを描いたことがないかと言えばまさかそんなことないだろう。何枚か描いているに決まっている。セーチョーの言う読売新聞の投書の主、
「春画を描いて貰い、相当なお金をお礼したことが」
というのが本当の話である見込みは充分にあると思う。が、平沢は弁護士に聞かれて頑強に否定した。
 
「春画を描いたことはない」と最後まで言い続けた。なぜだろう。セーチョーや弁護団、遠藤のクズが言うように、それで画家生命が絶たれるとか、キャリアの汚点になるとかいったことがあるとは、いくら当時でも思えない。
 
その点では斎藤勝裕の書くことが正しい。ではなぜこれを否定したのか。
 
おれが考えるにひょっとして、真相はこうじゃなかろうか。大正か昭和初期、そのテの絵に高値がつくこともあった頃に平沢は、女を描いて弐千圓ばかりの画料をせしめ、得意になって画商に見せた。『D坂』に出てくるような春画専門の鑑定団だ。人気絵師が〈いい仕事〉をしてるものなら数千圓で買い取ってくれるというような。
 
その彼らに平沢は、
 
「どうです。ボクのこの絵なら、壱萬圓で売れるでしょう」
 
と自信満々に言ったのだけど、画商達は口を揃えて、
 
「ま、いいとこ伍拾圓だね。平沢先生、悪いけど、あなたにはこの方面の才能ないよ」
 
ゆえに平沢は公判で、弁護士どもが、
 
「ハダカを描いたんですよね? それが高く売れたんですよね?」
 
と言うのにこればっかりは、
 
「違う」
 
と頑強に否定した……。
 
作品名:端数報告2 作家名:島田信之