短編集87(過去作品)
石であること
石であること
ここに星を見るのが好きな男がいる。小学生の頃から、望遠鏡を覗いては、
――ああ、星の世界に行ってしまいたいな――
などと思っていた。だが、大人になるにつれ、現実的なことがイメージを封じ込めるのか、星を見ることもなくなってきた。
星の世界といっても、実際には暗黒の世界。どこまで行っても広がっている暗黒に思いを馳せても、先には何もないのだ。
中学の頃に友達と話した時に聞いたアインシュタインの「相対性理論」の話、メルヘンだったはずの星の世界をまったく違うものに変えてしまう。
「空に煌いている星は、今から数百年以上も前に煌いていたもので、今はあるかどうか分からないんだぞ」
などという話をすると、
「相対性理論だと、高速で動くものは衰えを知らないというが、光は衰えることなく地球に届いているんだろうね。地球にだけでなく、他の星に対してもそうだけど、でも、空気のないところで果たして煌いているのが見えるのかな?」
友達の話ももっともだ。
「遠くを見ていると距離感が薄れていくんだよね。これが宇宙ともなると、昔の人が天動説を疑わずに長いこと信じられていたのが分かるというものだ」
そういえば、特撮やアニメの世界では、異次元や鏡がよく出てくる。自分たちがいるこの世界以外にどこかで世界が広がっているとすれば、それは異次元か鏡の中と考えるのが自然であろう。ただ、鏡の世界も、異次元の世界も別物だという考え方ではなく、同じものだと考えれば広がっている世界がいくつ想像できようとも入り口が違うだけで、入ってしまえば同じ世界なのかも知れない。そういう意味でいけば、
――自分たちの世界に、他の世界からも無数の入り口が広がっているのかも知れない――
星の世界だって、自分たちが気付かないだけで、遠くにあると思っていても、実際は見えない扉を開けば、すぐ向こうに広がっているかも知れない。特撮映画でイメージされた異次元の世界がすぐそばに広がっていると思うのは、実に恐ろしいことだ。だが、考えられないことではない。そんなことを考えている自分が時々怖くなる。
見方を変えれば、見えているものが全然違って見えることに気付いたのもその頃だった。一時期、田舎に住んでいる時に思ったものだが、目の前に見える山をずっと高いと思っていた。
ある日のことだったが、ふと股の間から見てみようと思い立ったのはなぜだろう。まるで日本三景の一つである「天橋立」を見る時のようだ。
――今までそんなことをしたこともないのに、どうした風の吹き回しだろう――
誰かに言われたわけではない。何となくやってみたかったのだ。天橋立を一番最初に股の間から見た人も同じ感覚だったに違いない。
するとどうだろう。
高い山が空を覆い隠さんとするほどに見えていたと思っていたのが、逆さまから見ることによって、頭の上の方に小さく垂れ下がっているように見える山を見ていると、空の大きさを改めて知るのだった。
そんなことを考えていた少年時代、大人になっても考え方は変わっていないだろう。それだけ少年時代にいろいろなことを考え、イメージを重ねてきたに違いない。
この男、永倉俊太郎は今年で三十五歳になるが、普段から仕事ばかりをしていて、未だに独身である。
「僕は好きで独身でいるわけじゃないんだけどね」
冗談とも本音とも取れる言葉で、まわりを煙に巻いているが、本音はどちらなのだろう。本人にも分かりづらいようだ。
「出会いがないわけじゃないだろう。顔立ちだってしっかりしているしな」
女性との出会いに顔は大きなウエイトを占めているだろうが、付き合っていく上では性格に勝るものはない。二十代前半くらいまでは女性との出会う機会もあったが、三十歳を超えてからは、なかなか出会いがなくなってきた。心の中に思う人がいるのだが、その気持ちを量ることがどうしてもできない。
――対象年齢が不確かになってきた――
以前は若い女の子ばかりを見ていたが、途中から同じくらいの歳の女性も視野に入ってきた。
「ストライクゾーンが広がったということは、そこに続く言葉は決まったな」
と言われるが、よく分からずにキョトンとしていたが、
「諦めの境地だろう? 妥協ということさ」
ストライクゾーンが広がるということは、自分の理想を下げるということだ。妥協と言われて当たり前だと思う反面、必死になる年齢を通り越してしまったことへの寂しさを感じる。星を見て、
――ああ、星の世界に行ってしまいたいな――
と思っていた頃が懐かしい。
人恋しくなる時期というのがあるらしい。不定期には違いないが、バイオリズムに影響しているとすれば、あながち不定期でもないだろう。精神的に躁鬱の状態になる時があるが、
――来るぞ、来るぞ――
と思っているとやってくる。どこかに予感めいたものがあるのだが、言葉にするのは困難だ。
小さい頃、星を見ていると話しかけてくるおじさんがいた。望遠鏡を覗いていることも多かったが、時には近くの川原に横になって、星空を眺めていることもある。山だってそうではないか、近くから見ていると全体を見渡すことができず、綺麗なのかどうなのかは、遠くから見ないと分からない。いわゆるバランス感覚が分からないのだ。
星の世界にも言えることだ。星の世界のように、天体という平面状に見えているが、実はまったく違う世界に存在しているものはないだろう。望遠鏡で一点を見ているよりも川原で横になってボンヤリ眺めている方が、自分らしいと思えた。
川原で横になっていると覗き込んでくるおじさんの顔がやたらと大きく見えたのは、きっと天体というのを丸く感じて見ていたからだと思う。
「そんなに空を見るのが楽しいかい?」
横に見える月と同じくらいの大きさに見えるその顔は、ちょうど逆光になって、簿記皆形相をしていた。歯だけがやたらと白く、笑っているのが不気味にしか感じられない。
「うん、面白いよ。おじさんはどうしてそんなことを聞くんだい?」
「おじさんも昔は星が好きだったからね」
「今は好きじゃないのかい?」
「ああ、あまり好きじゃないね。少なくとも、ゆっくり星を眺めていようという気分にはとてもなれないんだ。ひねくれちゃったかな?」
自分で言うのだからそうなのだろう。今まで見てきて飽きちゃったのだろうか?
少なくとも俊太郎は、星を見ていて飽きてきたと思ったことはない。
――もっと見ていたいのに、時間がない――
と思ったことは何度もあるが、起き上がった時に見るいつもの風景の実に狭いこと、それだけ星の世界という大きなイメージに陶酔していたに違いない。
そのおじさんとは何度か話したが、いつも同じ時間帯だった。その日に限って、
――あのおじさんが現われるかも知れない――
と感じると、自然と星が見たくなるから不思議だ。おじさんに会いたくないというわけではないが、無理してでも会いたいと思うことはない。いつも、何かを聞いてみたいと思い立っても、すぐに忘れてしまう。だからおじさんと出会っても会話のほとんどは、おじさんからの話題である。
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次