加害者のない事件
――ああ、願いが叶ったんだわ――
という感動は本物で、その後にくすぶることになる不安と比べても、どっちが強いか分からなかった。
だが、芽生えた感情は自分の意志に関係なく強くなってくる。安川への愛情は果てしないもので、とどまるところを知ることはなかった。意志に関係ないだけに押しまくってくる力を感じる。その力に身を任せることがこれほど心地よいことかと思うと、
「くせになりそう」
というほど、淫靡なものだった。
恋愛感情に淫靡な匂いを感じると、女性はオンナになる。それを瑞穂は初めて知ったのだった。
店にいても、頭の中は安川のことばかりだった、それは彼のことを好きになってすぐのことで、その頃から安川も深溝も店に来ることが極端に減ってしまった。
一つの理由として、瑞穂は何となく分かる気がした。
――二人が付き合い始めると、お金を出して店に来て、好きな女の子の機嫌を取る必要がなくなるからだ――
と思ったことだった。
確かにお店に来るのは、女の子と他の人と話せないような話を聞いてもらったり、相手の話を聞いたりして、うまくいけば仲良くなれればいいという下心を持ってやってくるものだろう。そうでもなければセット料金まで取られて、わざわざ呑みに来る必要もない。友達と呑むのであれば、近くの焼き鳥屋で十分だろう。焼き鳥屋であれば、少々呑んで食ってしても、一人二、三千円くらいのものだ。何も?まなくても座っただけで三、四千円もかかるスナックに来るには、それなりも目的があって当然だろう。
店側もそれを承知しているので、女の子にサービスをさせるようにする。風俗ではないので、おさわりは厳禁だろうが、精神的な癒しを与えてもらえるだけでお嬉しいと思う男性は実際には結構たくさんいるものだ。
だから、お店によっては、お客と個人的に仲良くなることを禁止している。せっかくのお客様をなくすことになるからだ。そんなことは瑞穂も分かっていたはずだったが、実際に仲良くなってしまうと、これほどお店が楽しくないものに変わってしまうもののかと思うと、
――私、何やってるんだろう?
と感じないわけにもいかなかった。
その思いを払拭してくれるのも、安川だった。彼の癒しがもらえると思うだけで、嬉しい気分になるが、元のこの胸騒ぎの原因は安川にあるわけだ。
「何をやっているんだろう?」
と思うのも無理もないことで、精神的に情緒不安定になっていたのも事実だった。
一種のブルー状態と言ってもいいだろう。
原因は分かっているが、理由として成立していないような気がする。だからこそ気持ちが中途半端になり、気分が晴れない。それがそのままブルーな感覚に陥ってしまうことで絶えず何かを考えていないと気がすまなくなってしまう。
何かを考えると言っても、考えることと言えば一つ。好きになった相手である安川のことだ。本当はその時、一番考えてはいけない相手を考えるのだから、どうしようもない。しかも考えるのも無意識の行動であるだけに、救いようがないと言ってもいいだろう。
今思い返すといろいろ頭の中に去来するものがある。どうしてそんな感情が、深溝への殺意に変わったというのだろう。
元々深溝はつばさちゃんのお相手だったはずだ。彼が瑞穂に乗り換えたとでもいうのだろうか。
瑞穂は、自首したということは自分が深溝を殺そうという意思を持っていたということを分かっているという証拠であるが、なぜ殺そうと思ったのかと言われると、そのあたりの記憶がどうも飛んでいるようだ。
「そんなに都合よく記憶が飛ぶなんて、おかしいじゃないか」
と、警察に言えば、そう責められて、そのあたりの心の弱さを突かれて、ありもしないことを自供してしまうかも知れない。
もし、自分は関係ないということでこの嫌疑から逃れられればいいが、もし逃れられなかった時は、厳しい追及が待っている。それを今の精神状態で切り抜けられる自信は瑞穂にはなかった。
「それならいっそのこと、最初から自分がやったと言って自首すればいい。行動を起こしたことに変わりはないのだから」
という思いが、あの時の自首に繋がったのだ。
逃げられないという思いと、捕まった時の追求の厳しさを思うと、自分から名乗り出る方が心象がいいという心理的に姑息な手段だと言ってもいいかも知れない。
しかし、自首は悪いことではない。少なくとも捜査に協力という形になるだろう。結果的に相手は死んでいないのだし、執行猶予もありうる。それも一種の駆け引き。
――私って、そんなにあざとい女だったのかしら?
と感じたが、もしつばさちゃんの話した探偵さんに看破されてしまったら、自分の立場がどうなってしまうのかが怖い気もした。
でも、せっかく紹介してくれるというのを無理に拒否することもできない。この状況で下手に拒否するのは、自分にとって、もっと不利な状況に追い込みそうに感じたからだ。「とにかくつばさを信じて、依頼して見よう」
と考えたのだ。
鎌倉探偵
依頼しようと思っている探偵は、名前を鎌倉光明という。彼は元々作家だったという話だが、実は出版社から依頼を受けて、一度他の探偵が行った調査の再捜査をしたことがあった。それはまた別のお話なのだが、その裏に潜む企みを見事に暴いて、事件を解決した功績があり、警察からも一目置かれていた。
そんな彼が小説家から鞍替えし、探偵をするようになったのだが、最近ではそれなりに解決できているのでと、つばさちゃんがいろいろ考えたところ、彼に依頼してみようとなったのだ。
彼は深層心理を抉るような小説を書いていて、心理学的な観点からの捜査方法だった。今回の事件にはふさわしいのではないかということになったのだった。
さっそく彼の探偵事務所に赴いたが、まだまだ探偵としては駆け出しの状態なので、事務所もそんなに大きなものではなかった。一人助手のような人がいて、その横に事務全般を行っている事務員の女性がいた。
奥に応接用のソファーがあり、正面に鎌倉探偵を置き、その正面に、瑞穂と、つばさちゃんが腰かけた。
鎌倉探偵は、自分が知り得ている事件のあらましをまず説明し、自分がどこまで知っているのかということを相手に示したうえで、足りないことを補足させようというやり方だった。
鎌倉探偵は結構おおまかなところは知っているようで、それでは話が早いと、まずつばさちゃんの方から話を始めた。当事者である瑞穂の方は、ここ最近の慌ただしさで頭が混乱しているようで、鎌倉探偵もつばさちゃんからの話の方を最初に聞くのがいいだろうと、別に反対はしなかった。
つばさちゃんの意見はどうしても、瑞穂擁護の偏った意見になるのは仕方がない。それも鎌倉探偵は分かっていたので、重要な部分だけをメモして、あとはほぼスルーだった。
「ところで瑞穂さん、あなたは自首したということでしたが、そのことは誰かに相談してのことでしたか?」
いきなりの質問であったが、この質問は分からなくもない。