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夜が明ける(下) オール讀物新人賞最終候補作

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「ひょっとすると………」悦弥が声を漏らした。「吉添様を亡き者にしようとしたのは、斉宣自身でしょうか」
「そういえば」伝乃介が応じた。「銀丞さま殺害の知らせを受けてすぐ、青木さまを呼びつけてなにやら話しておられました」
 それを聞いて悦弥が断定するようにひとりごちた。
「仕組んだのは斉宣と青木だ」
 喜久左衛門もそうだと思った。そして、それは確信にちかいものだった。
 文吾の哀れな姿を凝視しながら、こんなふうにしたのはわしだ、と喜久左衛門は自分を責めた。斉宣暗殺計画に巻き込んだせいでこの男を
死の淵に突き落とすことになってしまったのだ。
 許せ、と胸の中で悲痛に叫んだ。
「さて、いかがしたものか……」
 武親が力なく声を吐き出した。
 この計略のいわば総大将である文吾が倒され、そのうえ斉宣にも察知されて、すべては暗礁に乗り上げてしまった。
「八方ふさがりか……」
 喜久左衛門がため息まじりに言った。
「まさか……」悦弥が悲痛な声を上げて一同を見回した。「諦めるのですか?」
 それに答える者は一人もいなかった。
 悦弥がふたたび口を開いた。
「毒飼がかなわぬなら、いっそ斬ってしまえばいいのです。御上には病死と偽って届ければいいだけのことでしょう」
 と桂斎を見る。
 桂斎が頷く。公儀には跡目相続の届けである跡目書き上げを出さなければならないが、そこに斉宣の死亡証明書を書いて添えるのは桂斎である。
「しかし、青木がおる」留守居の横井泉次郎が声を上げた。「斬り殺した遺体を見れば病死でないことは一目瞭然。暗殺が露呈し、ただちに御上に
注進されてしまうであろう」
「その前に口封じするしかありません」
「青木も斬るというのか?」
 伝乃介が驚いて悦弥を見た。
「それしかございません」
 そのとき、喜久左衛門がぼそりと声を漏らした。
「そうか、青木か……」
 一同が振り向いた。
 皆の視線を集めながらも、黙考を続けていた喜久左衛門が、やっと口を開いた。
「青木は殺さない。生き証人にするのだ」
 一同がいぶかって喜久左衛門を見る。
「よいか、ご一同……」
 手招きされて、五人の男たちは喜久左衛門の前に額を集めた。
 いつのまにか、障子の外が白々と明るみはじめている。
 すぐそばでは、男たちの話が聞こえているのかいないのか、文吾が死人のように眠っている。
 まもなく、夜が明ける。



      五

「伝乃介」
 斉宣の声に、隣室に控えていた伝乃介は寝所の襖を開けた。
「お呼びでございますか」
「酒を持て」
 夜具は延べてあるが、斉宣はその中にいず、険しい顔で部屋のなかをうろうろ歩き回っていた。最近なかなか寝つかれないようだった。
「御酒でございますか」
「うむ」
「御酒ばかりではお体にさわりますぞ」
 あの日以来、斉宣はほとんど食べ物を口にしていず、口にするものといえば酒だけだった。
「まだ寝る気にならん。早う持て」
 苛々とした声が返ってきた。
 伝乃介の後ろに控える小姓が座を立とうとすると、斉宣が言った。
「酒は伝乃介が用意いたせ。他の者はならぬ」
 伝乃介は立ち上がり行こうとしたが、思いついたように振り返って声をかけた。
「青木さまもお誘いしてはいかがでしょうか。今夜は月がきれいでございます。お二人で月見酒など」
「うむ」
 刻は四つ(午後十時)過ぎ。青木はもう寝ているかも知れなかった。
 小姓が青木を呼びに走り、伝乃介は厨へと向かった。
 小姓頭は小姓や小納戸を統括する役目で、直接身の回りの世話をすることなどないのだが、銀丞が殺されてからというもの、斉宣の命ですべて伝乃介が
行うこととなっていた。
 薄暗く誰もいない厨に入って行くと、伝乃介は用意を始めた。
 膳を二つ出し、それぞれに盃を置く。酒を燗して二つの片口に注ぎ、膳に載せて塩を盛った小皿を添える。斉宣は夏でも燗酒を好み、また、
どこで覚えたのか、酒飲みの通人を気取って、塩だけをつまみに嘗めながら飲む。肴を出しても、ほとんど箸をつけることはない。
「殿、御酒の用意が   」
 二つの膳を持って寝所に入っていった伝乃介の足が一瞬止まった。斉宣が抜き身の太刀を手に仁王立ちになっていたのだ。
「わしは殺されんぞ! いつでも来い、返り討ちにしてくれる!」
 暗殺者の影に怯えていた。
 伝乃介は斉宣の言葉が耳に入らなかったように庭の障子に歩み寄ると大きく開け、そこに膳を据えて空を見上げながらのどかに言った。
「殿、よき月ですぞ」
 そこへ小姓に案内されて青木が入ってきた。
「殿、月見酒とは風流でございますな。ご相伴にあずかれるとは望外の幸せ」
 眠そうな目をしながらも、いつもの追従笑いは忘れていなかった。
「付き合え」
 刀を手にしたまま、酒の膳が置かれている縁に座った。
 そんな姿に異状を勘づかないはずはなかったが、青木は愛想笑いを浮かべて片口をとり、酌をしようとした。
「待て」
 斉宣が抜き身の先を伝乃介に向けて言った。
「伝乃介が毒味をいたせ」
「それがしがこの手でご用意いたしました。ご懸念は無用にございます」
「お主、わしを裏切らぬか」
「なにを申されるかと思えば……」
 驚きの表情をかすかに浮かべて言った。
「決して裏切るでないぞ」
「申すまでもござりませぬ」
「ではその証しにここで毒味をして見せろ」
「は」
 伝乃介は斉宣の片口を取って盃に注ぐと、ためらうことなく一気に飲み干した。異変はなにも起こらなかった。
「青木の分もだ」
 伝乃介は迷わず、同じように毒味をして見せた。やはり異変は起こらなかった。
「塩もだ」
 塩も嘗めたが、何ごとも起こらなかった。
 これで斉宣も納得したようである。
 伝乃介は口をつけた青木の盃を拭いて膳にもどし、斉宣の盃もおなじようにして膳にもどすと、うしろに退いた。
「下がってよい」
 青木に言われて隣室に下がった。
 寝所の縁先で二人だけの酒宴がはじまったようだった。
 小半刻(三十分)もたったころ、突如、悲鳴にも似た鋭い声が夜の静けさを切り裂いた。
「誰か! 誰か!」
 青木の声だった。
 伝乃介たちが飛び込んで行くと、斉宣が縁をのたうち回っていた。吐瀉物があたり一面にぶちまけられていた。
「桂斎先生を」
 伝乃介が小姓に命じ、駆け寄って呼びかけた。
「殿、殿。いかがなされました」
 斉宣の喉がぐぶぶと鳴った。慌てて身体を横向きにさせる。吐いたものを吸い込まないようにするためである。
 斉宣はその後も嘔吐を続けた。白目を剥き胸をかきむしって悶苦し、うめき声のほかに声を発することもできなかった。


 喜久左衛門は福壽院を引き払い、藩邸内の屋敷に戻った。
 朝餉を済ませると、庭ばさみを持って狭い庭を一巡し、気になった枝葉を剪定し、自室に戻って茶を喫する。つまり、かわりばえのしないごく平穏な
暮らしに戻った。
銀丞に斬られた左前腕には今も痛みが残っているが、日々の暮らしに困るほどではない。
 傍目から見れば以前と変わりないのどかな暮らしだが、心はたえず波立っている。
 文吾、死ぬな、とこれまで何度も胸の中で叫びつづけてきた言葉をまた繰り返した。