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夜が明ける(下) オール讀物新人賞最終候補作

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 自宅でやきもきしているくらいならいっそ会いに行こうと立ち上がった。着替えを済ませ、嫁の由乃に出かけると声をかけた。
「お出かけでございますか? 雨が降りそうな雲行きですが」
「うむ」
「傘を」
 由乃が傘を取りに行った。
 玄関の式台に下りたところへ、あわただしい足音がして、悦弥が飛び込んできた。
「有賀様」
「いかがいたした」
 走ってきたのだろう、額に汗を浮かべ荒い息をしながら悦弥が言った。
「文吾さまが……、お気がつかれました」
 そのとき、静けさを破るように、おもてで雷鳴が轟いた。


 喜久左衛門は文吾とともに湯島の中屋敷を訪れ、通された奥の座敷で斉韶を待った。
 梅雨に入ってひと月ほどたち、雨の日がつづいていたが、今日はめずらしく空に晴れ間が見えて、朝から蒸し暑かった。
 開け放たれた向こうに広がる庭には紫陽花が豊かな薄紫の花を咲かせ、微風に揺れている。
 部屋に入ってきた斉韶は開口一番言った。
「吉添、無事と聞いて嬉しかったぞ」
 文吾は深々と辞儀をして、「ありがたきお言葉でございます」と礼を言った。
 動かすと傷口がまだ痛むので腕を吊っているが、すこしずつ日常の暮らしに戻っていた。
「こたびはそのほうたちに大儀をかけた」
 斉韶はあらためてねぎらいの言葉をかけた。
「直憲さまがめでたく世嗣となられました」
 喜久左衛門があらためて報告した。
 跡目書き上げが通って、幕府から許しが出た。八月には藩主としてはじめて徳川家慶に拝謁することも決まっている。
 斉韶が「うむ」と、感慨深げに頷いた。明石藩が越前松平家の血に戻ったのだ。
「これで、奥の死もいくらかは報われるやも知れぬ」
 斉韶が呟くように言った。自害した至誠院に遠く思いを馳せているようだった。
「すべて吉添文吾のぬかりない差配のおかげでございます」
 喜久左衛門が言うと、
「この戦略の総大将は有賀様ですよ」と文吾が言う。「わたくしは命じられるままに動いただけで」
「しかし……」斉韶が言った。「斉宣のこと、よくぞ首尾よく運んだものだの」
 斉宣が吐瀉した夜、すぐさま駆けつけた桂斎は、胃の薬を処方して飲ませた。何日も食事を摂らず酒ばかり飲んでいたので、胃の腑が荒れていたのだろうと
そばで心配げに見守る青木に桂斎は言った。
 しかし、その後、薬を煎じて飲ませても症状が治まることはなかった。それどころか、つぎの日には、悪寒と高熱に襲われ、排尿の痛みを訴えるようになり、
夕刻を過ぎた頃からぐっしょり濡れるほどに汗をかいて、たびたび夜着を替えなければならなかった。
 小姓たちの付きっきりの介抱にもかかわらず、五日目には全身に発疹と四肢に紫斑があらわれ、意識が混濁し、呼吸が乱れ、悪夢でも見るのか、
意味不明の言葉を発するようになった。
 六日目には、医師団の必死の治療の甲斐もなく、完全に危篤状態に陥った。
 症状から診て、これは胃患いではなくコロリ病かもしれないと桂斎から耳打ちされ、青木は震え上がった。斉宣につきっきりだった自分にも感染したのでは
ないかと恐れたからである。たしかにその症状はコロリにも似ていた。しかし、青木はもとより、家中で同様の症状を訴える者はいなかったし、どこから
感染したかもわからなかった。
 八日目、斉宣はついに息を引き取った。天保十五年五月十日、薄黒い雲が空に広がり、雨が江戸中を覆い尽くす夕刻のことだった。
 もちろん、それがコロリ病でなかったことを喜久左衛門たちは知っている。
 はじめに毒を盛ったのは伝乃介である。当夜、酒の用意を仰せつかった伝乃介は、厨で二人分の酒の膳をこしらえたあと、懐に忍ばせてあった薬包紙の
包みを出し、別の小皿に白い粉末を移して少量の湯で溶いた。石見銀山の粉末は冷水ではなく温水ならよく溶ける。それを人差し指の先に塗りつけて寝所まで
膳を運んでいった。
毒味が済んで盃を拭いて膳にもどすとき、斉宣の盃にだけその毒液を塗りつけたのである。
 石見銀山の液を塗った伝乃介の指はその夜から黒ずみはじめ、やがて皮が剥け、あとに白い跡が残ったが、ほかにこれといった異変はなく、
命にも別状はなかった。
使った毒がごく微量だったのと、桂斎に言われたとおり、寝所を退いてすぐに指を洗ったのが良かったのかも知れなかった。
 二度目の毒は、発病して三日後、桂斎がみずから胃の煎じ薬に混入して飲ませた。少しでも毒飼を悟られないため、微量ずつ二度にわけて飲ませる方法を
選んだのである。
 斉韶が訊いた。
「青木のことが気にかかるが、この先面倒はないか」
「ご懸念はご無用かと」文吾が応じた。「それがしを襲った者が青木の手の者である証拠を掴んでおると申し伝えましたので」
「襲った者の正体がわかったのか?」
「いえ、はったりでございます」文吾がにやりと不敵な笑いを浮かべて言った。「そのことが表にあらわれれば、御身も無事では済みませんでしょうなと
暗に脅してやりましたら、きゃつめ、顔色を変えて出て行きました」
 それを聞いて斉韶は屈託のない笑い声を上げた。
 文吾が喜久左衛門を振り向いていきなり言った。
「戻っておいでにはなりませんか」
「どこに?」
「執政の席に」
「家老にと?」
「いまの拙者の席です」
「江戸家老に?」
「はい。いちおう執政会議に諮らねばなりませんが、こたびの活躍と手腕を見たのですから、反対する者はおらぬでしょう。有賀さまは、隠居なさるには
早すぎました。まだまだ藩のためにひと働きもふた働きもおできになられる」
「待て待て」と斉韶が割って入った。「あの日、戦略とその覚悟を打ち明けられたときから存念しておったのだ。喜久左は直憲の側用人が良い」
「おう」
 文吾がはたと膝を叩いた。
「直憲はまだ十八。新しく藩主となった直憲をそばで支える者が必要だ。それは喜久左しかおらぬ。昔わしの側で支えてくれたようにな」
「それはまさに適役にございますな」
 斉韶と文吾が声を上げて笑うのを遠くに聞きながら、喜久左衛門はどんな顔をしていいのかわからず困っていた。


 夜明け前に目が覚めて、喜久左衛門は床を出た。
 障子を開け放ち、縁側に出ると、目の前に広がる庭は静寂を湛えてまだ眠りから覚めていないようだった。梅雨時の生ぬるい空気が流れて、肌にまとわりついた。
空は薄闇を残し、黒い雲に覆われている。
 昨夜はあまり眠れなかった。
 緊張しているのか? と自問し、すぐにそれを認めて苦笑する。今日から、新しいお殿様の側用人としてお勤めに出るのだ。
 老体となったこの身に、かつてのような働きが出来るだろうか。そんな不安を追いやり、静かに、強く思った。
   年寄りの底力を見せてやろうではないか。
 これで生まれ変わるのかも知れない。一度は死んだ身だが、生き返るのだ。心の張りを失い、大げさにいえば、生きていることが無意味にしか思えなかった
以前のおのれと訣別するのだ。わしは、世間から忘れ去られた無用の人間ではなくなった。
 突如鋭い閃光が、群がり立つ雲間を奔り、雷鳴を轟かせた。
 はて、これは新たな門出への祝砲なのか、それとも暗雲立ちこめる明日を暗示する警鐘なのか。
 また雷鳴が鳴り渡り、空を揺るがした。