夜が明ける(下) オール讀物新人賞最終候補作
「これがうちの有り金ぜんぶですよ」
道中財布だった。手に取ってみると、さして重くはなかった。紐を解いて中身を確かめるまでもない。文銭と、よくてほかに小粒が数枚といったところ
だろう。
どこかほかに大きな金があるにちがいなかったが、銀丞を討つという真の目的はすでに果たしている。金は、多寡にかかわらず、奪いさえすればよかった。
「よし、引き上げだ」
二人は家から飛び出した。
銀丞を討ったあと、ただちに毒飼いにかかる手筈だった。斉宣の食事に混入し、七、八日かけて死に至らしめるという計画だったのだ。ところが、福壽院に
もどったつぎの日、江戸家老の文吾から何の報告もないまま、落ち着かない一日を過ごして夜を迎えることとなった。
「なにかあったのでしょうか」
悦弥が焦りを見せていった。
「明日にはなにか言ってくるだろう」
がらんとした宿坊に床を延べ横たわったが、なかなか寝付けなかった。
暗闇の中、あわただしく近づいてくる足音を聞いてふたりは跳ね起きた。
枕元の刀を掴んだとき、板戸を開け飛び込んできたのは近習頭取の浅野井武親だった。文吾が信が置けると太鼓判を押した男である。
走ってきたのだろう、息を弾ませ、前置きなしに言った。
「吉添さまが斬られました」
「なに?」
「つい一刻半(三時間)ほどまえとのことにございます」
御手先衆の浅古家での話し合いを終え、江戸藩邸にもどる帰途、小石川あたりで襲われ、乗物に乗っていた文吾のほか供の者二名が斬られた。
かろうじて難を逃れた駕籠者二名がちかくの大名屋敷に駆け込み助けを求めて、ただちに医師のところへ運ばれたが、ほとんどの者はすでに絶命していたという。
「いま、吉添は?」
「ただいま当家の藩邸にお運びしているところでございます」
文吾の死は、あまりにも突然のことで、実際にこの目でたしかめてみなければ信じられなかった。
「行こう」
喜久左衛門たちはあわただしく宿坊を出て行った。
藩邸に着くと、すでに文吾は運び込まれて役宅の奥の寝屋に寝かされていた。かたわらに藩医の桂斎が座り、見守っている。
「文吾!」
駈け寄りながら呼びかける喜久左衛門に桂斎が言った。
「お静かに。いま、戦っておられる」
意味を解しかねて振り返ると、桂斎がつづけた。
「吉添様は、死と懸命に戦っておられる」
「まだ生きておるのか?」
桂斎は静かにうなずいた。
「乗物から出るいとまもなく斬りつけられたのでしょう。左側の胸と脇腹にかなり深い突き刺しの傷を負っております。血も大量に失ったようです」
「助かりそうか」
桂斎は力なく首を振り、言った。
「医者としてやれることはすべてやりました。あとは、吉添殿の生きる力を信じるしかござりません」
喜久左衛門は文吾に目をもどした。どう見ても死んでいるようにしか見えなかった。顔に血の気はなく、ぴくりとも動かず、息をしているのかもさだかでは
ない。
「襲ったのは何者だ」
文吾を見つめたまま武親に問いかけた。
「わかりません。駕籠者が見たようですが、覆面をした四、五名の武家だったということしか」
悦弥が茫然と声を漏らした。
「誰がなぜ……」
「いちばんに考えられるのは………」喜久左衛門が呟くように言った。「銀丞だが……」
すでにこの世にはいない。昨夜、我らがみずからの手で討ち果たした。
背後で無遠慮な足音がして振り向くと、一人の男が入ってくるところだった。
それを見てその場にいる者たちが凍りついた。藩主の斉宣だったからである。
あとから、側近の青木甚左衛門が追いかけるように入ってきた。四年前、銀丞とともに将軍家から送り込まれてきた田安家の用人である。
斉宣は横たわる文吾のところまできて見下ろし、
「死んだか」
と誰に言うともなく声を上げた。
一同が答えず黙っていると、
「吉添、死んだか!」
一同がはっと息を呑んだ。いきなり文吾を力まかせに蹴りつけたのだ。
喜久左衛門がとっさに前に入って、なおも蹴りつけようとする斉宣を、押しとどめた。
「瀕死の者にございまする」
斉宣が目に前にはだかる喜久左衛門に気づいて、驚きの声を上げた。
「そのほう、なぜここにおる?」
「見舞いに」
「見舞い? 吉添は死んではおらぬのか」
「はい」
「うぬ!」
いきなり脇差を抜き、文吾に斬りかかって行こうとした。
武親と悦弥も飛びつき、押しとどめる。
「いますぐ殺せ!」斉宣が叫んだ。「この男は逆臣ぞ! わしを亡き者にしようと企む乱魁ぞ!」
喜久左衛門たちに戦慄が奔った。
気づかれている。
「殿」
青木が駆け寄り、斉宣をなだめ連れて出て行った。
寝屋にどんよりと重苦しい空気が残った。
横臥する文吾の足元に、男たちが集まって膝を突き合わせている。有賀喜久左衛門、藤井悦弥、医師の桂斎、近習頭取の浅野井武親、そしてあらたに
呼ばれた江戸留守居役の横井泉次郎、小姓頭の野口伝乃介である。
伝乃介は四年前、小納戸役に就いていたとき、江戸家老の喜久左衛門に任じられて上屋敷奉行の山縣正太夫と明石城まで斉宣跡目相続の報せを届けた
男である。
それがいまは小姓頭となって、斉宣の警固や身の回りの世話をしなければならないのだから、苦汁のお役目とも言えた。皮肉なことに、いま斉宣から
もっとも信頼を得ている側近が伝乃介だったし、そのぶん、斉宣の性向や昨今の様子までよくわかっていた。
「困ったことに相成った」武親が言った。「気づかれてしまったようですな」
「なぜ気づいた……」
喜久左衛門も首をかしげる。
「芝二葉町の件はいかが相成りましたか」
と訊いた武親に、泉次郎があらましを説明した。
銀丞の事件の探索は月番の北町奉行所によって行われたが、妾や下女の証言から、犯人たちの目的は金銭で、銀丞は運悪く賊と鉢合わせになり、殺されて
しまったのだと結論づけられた。二人組の押し込み強盗の身元に繋がる手がかりは、今のところまったく見つかっていない。
殺されたのが大名家の重臣だったので、ただちに幕府大目付と、ここ江戸屋敷にもその旨が報告された。
「そのことですが………」
伝乃介が、重苦しい空気のなかで口を開いた。
押し込み強盗に殺されたと聞いても、斉宣は信じなかった。吉添だ、吉添文吾がやったのだと即座に決めつけた。常日頃衝突の多かった銀丞を排斥するために
仕組んだ偽装強盗だと。
かねてから藩内に漂う不穏な空気を感じ取っていたのか、銀丞が殺されたことを知って、つぎは自分の番だと恐慌を来し、疑心暗鬼に陥っているという。
それを聞いて喜久左衛門は苦々しく思った。狂人は、時として常人以上に勘が冴えるものらしい。
文吾から毒を盛る役目を命じられていたのは、小姓頭の伝乃介である。明石藩の江戸屋敷には御膳部吟味役とよばれる毒味役が二名いる。
銀丞殺害を遂げたつぎの日の朝、伝乃介が手筈どおり、毒味が済んだ膳部に桂斎から渡された石見銀山を混入して運んだのだが、斉宣は今朝は食する気分ではないと
拒否した。
今後の膳部は、伝乃介が目の前で毒味をするのを見たあと食べると言い出した。そんなわけで毒飼は頓挫し、だから喜久左衛門への報告も遅れたのだった。
作品名:夜が明ける(下) オール讀物新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士