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夜が明ける(下) オール讀物新人賞最終候補作

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「大御所家斉公の和子である斉宣が、家臣に襲われ斬殺されることなど断じてあってはならぬのだ。それが明石藩の企みと少しでも疑われれば、わが藩の命運は
尽きる」
「では、斉宣をこのまま生かしておくのですか?」
「斬らない。斉宣は病死する」
「えっ……」
 悦弥は息を呑んだ。毒飼(毒殺)を画策していると察したのだ。
「病死だとしても、なかには疑いを持つ者がいるやも知れぬ。騒ぎ立てて幕府に注進などされては面倒なことになる」
「誰のことを申されておるのですか」
「袴田銀丞だ」文吾が横から口を挟んだ。「そもそも袴田銀丞は、わが藩の政治向きと財政を危うくしている元凶ともいえる男だ」
「われら下の者は、そこまで考えが及びませんでした」
 喜久左衛門がつづけた。
「あの男なら、斉宣が急の病で倒れたことに疑念をもち、騒ぎ立て、ご公儀に訴え出ぬともかぎらぬ」
「………」
「まず除くべきは、袴田銀丞だ」
「……万事呑み込みました。では、銀丞はいかにして……」
「おれたちが斬る」
「おれたち……」
「おれとおまえだ」
 と喜久左衛門は言った。



      四

「つい先刻、二葉町に入りました」
 田代周蔵が息せき切って駆け込んできて、喜久左衛門たちに告げた。悦弥に誘われ斉宣暗殺に加担しようとしたが、直前で怖くなって逃げた若者である。
家に立ち戻ったところをつかまえ、言い含めて、銀丞暗殺計画に参画させることにしたのだ。とはいえ、剣術の腕は頼みにできないので、銀丞の見張り役に
したのだった。
 見張りをはじめて、月はすでに五月にかわっていた。
 銀丞の本宅は赤坂御門からほど近い諏訪坂にあり、そこに妻子もいるが、帰ることは滅多になく、暮らしの中心は、もっぱら隼町の藩邸内だった。
 銀丞を殺す場所は、藩邸内であってはならない。藩の関与や、藩内の紛争と疑われるのは何としても避けたいからだ。とはいえ、公用で藩邸を出るときは
供がいつも何人かついているし、人目もあるので襲うのは難しかった。
 身辺を探るうち、銀丞が芝の二葉町に女を囲っており、月に何度か泊まることがわかった。以前吉原で芸者をしていた、二十歳になる女である。
妾宅に泊まるとき供はいない。それらはすべて、江戸家老の文吾を通じて、近習頭取の浅野井武親からもたらされた情報だった。斉宣暗殺は、今や藩ぐるみで
動き出している。
 そして今夜、銀丞が妾宅に入ったのを周蔵が確認したのだった。狙うのは今夜しかなかった。
 周蔵を帰らせると、喜久左衛門と悦弥は黒装束に着替え、夜が更けるのを待って福壽院を出た。
 二人は江戸の町を駆け抜けた。
 丑の刻(午前二時)。町は闇と静寂に塗り込められて、夜盗にしか見えない怪しげな二人を見咎める者はなかった。
 土橋を渡り、突き当たりの二葉町の路地を一本入ったところに目当ての一軒家はある。
 ふたりは裏手に回り、そこで頭巾を出して顔を包むと、柴折り戸を開けて近づいていった。
 寝込みを襲うのだから、相手は刀を手にとる間もないし、造作なく終わるだろうと踏んでいた。まずは勝手口近くの小部屋に寝ているであろう住み込みの
下女を縛り上げる。
つぎに寝屋に踏み込み寝ている銀丞を斬る。添い寝していた女に金を出せと脅し、奪って逃げるという算段である。すべては、押し込み強盗の犯行に見せる
ためだった。
 勝手口の腰高障子に手を掛けたが、動かなかった。心張り棒がかましてあるのだろう。外せと喜久左衛門に目顔で指示され、悦弥が障子に手を掛けた。
障子戸がかたかたと小刻みに鳴った。緊張で手が震えているのだ。
 喜久左衛門がその手を押さえ、自分が代わった。
 障子戸を持ち上げるようにして手前に引き、取りはずす。
 心張り棒をどけて二人は土間に踏み込んだ。
 竈と水場の奥に小部屋があった。
 足音を忍ばせ近づくと、障子を静かに開けた。
 夜具がのべてあり、人のふくらみが見えた。喜久左衛門がその上に馬乗りになり、下女らしき女を押さえつけて、口を塞いだ。
「声を立てれば殺す」
 女は抵抗しなかった。
 悦弥があらかじめ用意した手ぬぐいで猿ぐつわをかませ、布紐で手足を縛った。まだ震えがおさまらないのか、手際が悪い。
 おまえはここで女を見張っていろと手で示して、奥に向かった。
 廊下の奥の右手に、ぼんやりと障子が明るんでいる部屋が見えた。枕元に置いた有明行灯の明かりだ。そこが寝間だろう。
 喜久左衛門は静かに刀を抜くと、足音を忍ばせて近づいていった。
 ズバッ。
 寝間の障子戸を開けようと手をかけたとたん、障子紙を破って剣先が飛び出してきた。
 とっさに身を引いたが、前腕を斬られた。
 障子戸が大きな音を立てて開き、抜き身を持った銀丞が出てきた。
「何者だっ」
 それには答えず斬りあげたが、弾き返された。
 たちまち激しい斬り合いがはじまった。
 室内での動きやすさを考えて喜久左衛門が手にしているのは長さ二尺の脇差である。それに対して、銀丞は大刀で突きを繰り出してくる。狭い室内で大刀を
振り回せば、壁や柱にぶつかったり、打ち込んで抜けなくなる恐れがあるからだ。
 銀丞は、喜久左衛門の刀を跳ね返しながら、執拗に喉や胸元を突いてくる。そのたびに打ち払い、斬りつける。しかし、ことごとく払いのけられる。
 喜久左衛門は太刀を受け止めて相手に身体をぶつけていった。
 激しい鍔迫り合いになった。相手の力は強く、押し返されそうになる。力を込めると、斬られた前腕の傷が激しく疼く。
   まずい。
 このままではやられる。相手は四十そこそこ、おれは六十五。完全に力負けしている。
 押さえ込んでいる銀丞の刀身がじりじりと持ち上がってくる。
 眼前に迫ってきた白刃が行灯のかすかな灯りを受けてぎらっと光った。
 おれの命もここで終わりか。
 腿が触れた。
 相手を突き飛ばしながら、同時に足を力いっぱい踏みつけた。それは空振りし、ぎゃくに足をかけられ払われていた。
 廊下の床に仰向けに叩きつけられた。
 相手の白刃がひるがえり、喜久左衛門の身体のうえに振り上げられた。
 そのとき
 目の上で大刀を逆手に構えた銀丞の動きがぴたりと止まった。
 ゆっくりと崩れ落ちていくそのむこうから姿を見せたのは、刀身を突き出している悦弥だった。
 悦弥が立ちすくみ、握っていた刀を離した。
 銀丞が身体のなかに抜き身を入れたまま、喜久左衛門の視界から沈んでいった。
 うううう……とうめき声を漏らしながら悦弥がその場に立ちつくしている。
 うむと頷き、礼を伝えたとき、首を持ち上げて夜具の中からこちらを見ている女に気づいた。銀丞の妾だ。
 喜久左衛門は恐怖で身動きできなくなっている女に刀を突きつけ、
「金を出せ。金はどこだ」
 と言った。
「お金? そんなもの、ありゃしません」
 女は震える声で、それでもどこか太々しさを感じさせる声で言った。
「ない? そうか、おまえもあの男のようになりたいか」
 切っ先を突きつけ、刀身に貫かれ廊下に倒れている銀丞を顎で指した。
「わ、わかりましたよ」
 女はよろよろと夜具を出ると、違い棚の地袋から何かを出してきて、喜久左衛門のまえに投げ出した。ザクッと音がした。