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夜が明ける(下) オール讀物新人賞最終候補作

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      三

 吾妻橋を渡り、中ノ郷瓦町から北に折れて小さな橋を渡る。左手にはいま渡ってきた隅田川が豊かな水を湛えてゆったりと流れている。
千住大橋から下流は隅田川と呼ばれ、浅草付近では浅草川、宮戸川、両国付近では両国川、吾妻橋から下流は大川と場所によって呼び名が変わる。
 右に水戸様の大きな屋敷を見ながら隅田川沿いの道を北上する。
 空は突き抜けるように晴れ渡り、雲一つない。頬をなでる穏やかな風は心なしか温かく、春の到来を告げている。
 上野や飛鳥山の桜はそろそろ咲き始めていると聞くが、墨堤の八重桜はまだ硬い冬芽をつけたままで、開花はしばらく先になりそうだった。
 長く続く緑の土手を、菜の花のあざやかな黄花が点々と彩っている。
 春のはじまりの美しい風景が喜久左衛門を優しく包みこむように広がっているが、それを愉しむゆとりはない。たえず周囲に目を配り、人の姿が目にとまると、
藤井悦弥ではないかたしかめる。町人や百姓に身をやつしていることも考えられるので、いっときの気のゆるみも許されない。
 悦弥たちが藩邸内に押し入って襲おうとしても、部屋住みの身分では至難だろう。藩邸に立ち入ることも斉宣に近づくことも難しいし、万一近づけたとしても、
斬りかかる前に取り押さえられてしまうにちがいない。襲うとしたら、藩邸から外に出たときだ。花見しかあるまい、と喜久左衛門は思っている。
 今はまだ青葉だけの八重桜の並木が終わって木母寺まで来ると、折り返して川端を南へと戻る。この往復を一日何度かくり返し、日が傾きはじめると、
あきらめて帰途につく。これを三日前からつづけている。老体にはつらい、気の疲れる作業だったが、ほかに悦弥を見つけ出す場所も手だても思いつかなかった。
 徒士目付が潜伏先と思われる場所をしらみつぶしに探しているのだが、いまだに見つからないのだから、ここしかないという確信が日増しに強まってきている。
 斉宣が花見に来るのは七、八日先になるだろうが、事前に何度か現場を下見に来ているはずだし、ひょっとすると、すでにこのあたりに身を潜めて待ちかまえて
いるかもしれなかった。
 渡し場のすぐそばの茶店で一休みすることにした。川端に一軒だけ、花見客をあて込んでこの時期だけ開いている葦簀張りの仮小屋である。
 店前の床机に腰を下ろすと、茶店の主人に「茶を頼む」と声をかけた。それにしても気が早い、と喜久左衛門は胸の中で笑う。花が咲くまでにはまだ
間があるし、そのせいだろうが遊客の姿はほとんどなく、近くの寺の坊主や百姓がたまに行き過ぎるだけである。
 初老の主人が盆に茶を運んできて、「甘いものはいかがですか」という。床机に置かれた盆を見ると、茶に大福餅が添えてあった。ここに来るようになって
四日目、日に何度か立ち寄り、主人とはすでに顔なじみになっていた。
「ありがたい」
 甘味は好きである。早速手を伸ばし、頬張った。柔らかな餅とつぶし餡の甘さが口の中にあふれた。
 休むといっても、目はたえず通りをゆく人の姿をとらえている。
 喜久左衛門はとっさに食べかけの大福を皿にもどし、葦簀の裏に入り込んでおもてに目を凝らした。侍が向こうから歩いてくる。菅笠を被っていて顔は
定かではないが、体つきや歩き方に見覚えがある。
 侍は茶店のそばまでくると笠を上げ、川端のほうに目をやった。顔が見えた。やはり藤井悦弥だった。
 悦弥は一人だった。仮装もせず武家の衣装そのままで、大小を差している。
 道からそれて喜久左衛門のいる葦簀の前を通り過ぎ、渡し場のほうに降りていった。桟橋の上に立ち、じっと周囲を見回している。
 喜久左衛門は茶店から出て近づいて行くと、声をかけた。
「藤井」
 悦弥は振り返り、喜久左衛門だと気づいて息を呑んだ。
「襲撃の下見か」
 悦弥の顔が強張った。
「もう一人の仲間はどうした。田代なにがしという若い者は」
「………」
「恐れをなして逃げたか」
「………」
「まさか   」
「………」
 悦弥が無言で首を振った。
「よかった。裏切ったので殺したのかと思ったぞ」
「………」
 それに答えて、悦弥がまた首を振った。
「そのほうに殿を討ち取ることは出来ぬ」
「………」
「近づくこともかなわんだろう。命を無駄に捨てることになる。諦めろ」
「………」
「諦めぬか。……ならば、力ずくでも止める」
「手向かいますぞ」
 悦弥がはじめて声を発し、刀の柄に手をかけた。
 間髪おかず喜久左衛門の身体が動いていた。だっと懐に飛び込み、左手で自分の刀を鞘がらみに抜き上げて悦弥のみぞおちに突き込んだ。同時に右手が悦弥の
刀を掴んでいた。
 悦弥が突き飛ばされて倒れ込んだときには、すでに悦弥の刀は腰から抜き取られて喜久左衛門の手にあった。
 みぞおちを押さえてうずくまり、しばらく口がきけなかった悦弥が、やっと声を絞り出した。
「斉宣に天誅を……」
「諦めろ。勝算はない」
「……それがしをどうなさりますか。打ち首ですか」
「いいからついてこい」
 そう言って、喜久左衛門は先に歩きだした。


 喜久左衛門が悦弥を従えてやって来たのは、日吉山王大権現の裏、溜池に接する福壽院という寺だった。有賀家の菩提寺で、七年前に亡くなった妻の幾乃も
ここに眠っている。
 所化に案内されて通された二十畳ほどの宿坊にはだれもいず、宿泊客は喜久左衛門たちだけだった。
「おまえはわしとともに、しばらくここに寝泊まりする。逃げ出すなど余計なことは考えぬほうがよいぞ。おまえはお手配の身だ。藩を上げて探し回っているから
外に出ればすぐに捕まってしまう。そうなればそのほうの切腹か打ち首だけでは済まぬぞ。家族にも累が及ぶし、家名は断絶だ。心するのだな」
 脅かし過ぎたかなと喜久左衛門は思いながら、さらにつづけた。
「この寺の住持とは懇意だし、言い含めてあるから、心配はない」
 藩邸内の屋敷に悦弥を匿ったり、悦弥を連れて頻繁に出入りするのは危険だし、銀丞たちに目をつけられる恐れもあるので、ここにいっとき宿を移すことに
したのだった。
「わたしはどうなるのですか」
「明日にはわかる。今日はゆっくり休め」
 つぎの日、床を上げて身繕いをすましたころ、江戸家老の吉添文吾がやってきた。ここにいるから来て欲しいと、昨日のうちに寺に使いを頼んで伝えて
あったのだ。
 福壽院に来て欲しいと伝えただけで、詳細はいっさい知らせていない。悦弥の身柄を預かっていることが、まんいちにも漏れることを恐れたからだった。
 文吾が宿坊に入ってきて悦弥を見、
「この者は?」
 と聞いたが、すでに察しはついているようだった。
「藤井悦弥だ」と喜久左衛門は言った。「この者と、もう一人の田代なにがしという若者のお手配をすぐに解いてもらいたい」
「承知いたしました」と文吾は即答した。「殿を暗殺するつもりはまったくなかった、いっときの高ぶりで高言を吐いただけということで、目付のほうに
お構いなしと申し送りましょう」
 意外な成り行きに、悦弥は驚いて目を剥いた。それは喜久左衛門と文吾が先日の話し合いですでに合意していることだったが、悦弥はそのことを知らなかった。
 喜久左衛門が悦弥に向かって言った。