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夜が明ける(上) 第98回オール讀物新人賞最終候補作

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 無趣味であることを恥ずかしいとは思わないし、人として劣っているとも思わないが、時間をもてあます退屈な暮らしが苦痛だった。だから、道場に
通いはじめたのだ。
それは、老いへの焦りだけでなく、有り余る時間をつぶす意味もあったのだった。
 あと何年生きられるか知るよしもないが、残された時間はそう長くはないだろう。生を受けてから隠居するまでの六十年間、数限りなく試練を受け、
悩み苦しみ、打ちのめされ、辛苦をかさねてきたのだ。それでもう十分だろう。残された余生は幸福と喜びに満たされたいのだ。甚大な危難に巻き込まれ
翻弄される余生など、断じて受け容れるわけにはいかない。
 しかし、一方で、御家の一大事だ、座視しているわけにはいかないという焦燥が渦巻く。
 いや、やめておけ。御家が滅びるなら、それは天が定めた運命だ。それをどうやって食い止めようと言うのだ。老いぼれのおまえ一人があがいて
どうなるものではない、
ともう一人が押しとどめる。
 自分のなかで戦っているうち、奥底のほうで渦巻いていたひとつの思案が突如かたちを結んだ。そしてまた、それを押しとどめようとする声も
同時に聞こえた。
そのような大それたことを考えるな。やめろ、危険だ。おもてに顕れてしまえば、それこそ、おまえ一人の切腹ではすまない。御家取り潰しは必定。
 しかし、この葛藤はながくは続かなかった。
 喜久左衛門は夜具を跳ねのけ、むっくと起きあがった。
 次の瞬間、早朝の深閑とした寝所に怒濤の声が轟いた。
「是非もなし!」
 血が沸き立っていた。その高ぶりは、ひさしく味うことのなかった感覚だった。


「おお、喜久左」
 松平斉韶は部屋に入ってくるなり相好を崩し、近づいてきた。
 湯島にある藩の中屋敷である。斉韶は隠居が決まると、麹町の上屋敷からこちらに居を移した。
「上様におかれましては   」
「やめいやめい。そのような堅苦しい挨拶は」
 四十二歳の若い隠居は喜久左衛門の顔を上機嫌で覗き込む。
「久しいのう。顔色も良いし、息災でなによりじゃ」
 喜久左衛門は、斉韶六歳のとき御傳役に用いられ、十三歳で家督を継ぎ第七代藩主になると小姓としてお側につき、その後御用人に召し上げられ、
家老に抜擢され、最終的には江戸家老に昇った。三十六年の長きにわたって寄り添うように生きてきた間柄である。
「勤めを退いてから一度も顔を見せないとは薄情ではないか。寂しかったぞ。会いたかったぞ」
 永年仕えた忠義な家来というより、齢の離れた兄か父のように今も慕ってくれているのが伝わってきて、喜久左衛門は心が温まる思いがした。
「非礼はなにとぞお許しを。上様もお変わりなきようで嬉しゅうございます」
「四年か……」
 斉韶は、流れた歳月を噛みしめるように呟いた。
 喜久左衛門が江戸家老の職から身を引いたのは、斉宣が藩主の座に着いた四年前のことである。
 幕府から斉宣を藩主に直せとの命を受けたとき、すべてが終わったと思った。打ちのめされ、底なしの喪失感に囚われた。
家中の者のほとんどがおなじ気持ちを抱えていたし、正室の至誠院が自害したのもそのせいだった。
 そんな失意の底にある喜久左衛門に、とどめを刺すように追い打ちをかけてきたのが側用人の袴田銀丞だった。
喜久左衛門が斉韶公を藩主にもどす策謀をめぐらしているなどと、いわれのない言いがかりをつけてきたのだ。
さらに、斉宣が藩主になったことに対して、もとの家の血筋にもどすべしという不敬の声が家中であがっていること、至誠院の自害などつぎつぎと並べ立て、
それら謀叛ともいえる不祥事はすべて江戸家老の家中仕置き不行き届きであると、退陣を迫ったのだった。
 銀丞の執拗なまでの糾弾は、ことあるごとに斉宣の不行跡に苦言を呈し対立する喜久左衛門を排斥したいがためと察しがついたが、それに立ち向かう
気力は失せていた。
 日々、御家のために心血をそそいできた結果がこれか。この四十余年は何だったのか。なにもかも嫌になった。だから隠居を決意したのだ。
それは現実に背を向け逃げ出すことにほかならなかったが、踏み堪える力はもう残っていなかった。
 それは、斉韶もおなじだったろう。
 永年御側に仕えてきたから、喜久左衛門にはわかる。斉韶は心優しく、柔和な人柄である。政治や即断には少々力の欠けるところがあり、
迷い悩むこともたびたびだったが、
結果的には、御家や家臣、領民にとって最善の温情あふれる施策を導き出すのだった。
「まだ日は高いが、一献かわそう」
 斉韶は手を叩いてお付きの者を呼び、酒の用意をするように言いつけると、また嬉しそうに喜久左衛門を見た。
「久しく無沙汰してしまいました。いかがお過ごしでしたか」
「おお。身体だけは丈夫でな。暇で暇で困っておる」
「わたくしも同様。暇を持て余して困っております」
 江戸家老の職を辞したとき、斉韶公から、国元に帰らず江戸に留まることを許され、役宅を出たいまも藩邸内にある屋敷を与えられて住んでいる。
江戸生まれ江戸育ちの喜久左衛門にはありがたい処遇だったが、そこに喜久左衛門の居場所はなかった。
 息子の聡兵衛も嫁の由乃も、隠居しても以前と変わらず敬い、懇ろに扱ってくれるが、どうしても身の置き場に困ってしまうのだ。みずから隠居を
決めたというのに、
なぜか世間から見捨てられたような惨めさが気持ちの奥底に澱んでいる。何もせず日々を送るわが身が、役立たずの厄介者のようで負い目を感じてしまうのだ。
この世に生きていながら、この世は、喜久左衛門のはるか遠くにあった。
 それは、己の心の問題だと喜久左衛門もわかっている。わかっているのだが、どうにもできなかった。
「そうだ、こんど書画をはじめることにした」
 と斉韶は言った。
「書画でございますか」
「うむ、御用絵師の門下の者に知己を得てな、習うことにした」
「それはお楽しみでございますな」
「喜久左は嗜好とするものはないのか」
「囲碁、将棋、盆栽、俳諧、茶事、書画と、片端から試みてはみたものの、どれも続かず、すぐに放り出してしまう体たらくで」
「喜久左らしい」斉韶は笑った。「そなたはお勤め一筋だったからの」
 まもなく酒肴の膳が運ばれてきて、二人は盃を交わした。藩主と膳を挟んで酒を飲むなど、はじめてのことだった。喜久左衛門は感慨をもって
酒を味わった。
 他愛のない、そして愉しいひとときが過ぎた。
 やがて斉韶は盃を膳にもどすと、
「さて、それでは話を聞こうか」
 と言った。
 斉韶は心細やかで聡い人である。喜久左衛門が目途をもって訪ねてきたことを敏感に感じ取ったようだった。
 喜久左衛門はそれまでの笑みを消して言った。
「御家が危のうございます」
「はて……」
「家中の憤懣が、いまや抑えきれないところまで来ております」
「何に対する憤懣だ」
「お察しのとおりにございます」
「……斉宣か」
「斉宣公の奇矯、無法ぶりは目にあまります。藩主としてあるまじき、許さらざる行いの数々。藩中の憤懣遺恨は今や爆発寸前でございます」
「………」
「いまのこの状況は、四年前のあのときから積もり積もったものです」