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夜が明ける(上) 第98回オール讀物新人賞最終候補作

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 世嗣である斉韶の子直憲を排し、斉宣が藩主の座におさまったときからはじまっていた。直憲の生母である至誠院の自害も、不条理を強制した
大御所家斉への精一杯の抗議でもあった。
「家臣たちは爆発寸前か」
「まさに、御家は危急存亡の秋。現に、一部の者が暗殺を企て、動き始めました」
「まことか……」
 それは藤井悦弥という徒士頭の息子を頭首とする鉄心会であること、それを阻止すべく大目付に手配りさせたことを伝えて、喜久左衛門は言葉を継いだ。
「しかしながら……、そやつらの心気はよくわかり申す。それがしもおなじ思いでござる」喜久左衛門はきっぱりと言った。「我らも斉宣にはもはや
堪忍なりませぬ。
できるならこの手で成敗してやりたい」
「………」
 斉韶は何も言わず、喜久左衛門を見た。
「なおも斉宣の不祥事がつづけば、いずれは御公儀の耳に入り、わが藩は何らかの処分を受けることになりましょう」
「しかし、家中の者が大御所の和子である斉宣を暗殺したとなれば、ご公儀は黙っておるまい。そうなれば明石藩は進退これきわまる」
「いかさま。それがしもそのことについては思い寄りました。それゆえ、鉄心会の企ては何が何でも阻止せねばなりませぬ」
「それで?」
「……は?」
「そのほう、言いたいことはそれだけではあるまい。申せ」
 斉韶はすべてを見透かしているようだった。
 喜久左衛門は腹をくくった。
「有賀喜久左衛門、隠居したこの老いぼれに、もうひと働きさせていただきとう存ずる。つきましては、上様の御意を賜りに」
「………」
 障子を開け放した部屋を、春ののどかな風が明るい陽射しをのせて通り過ぎて行く。
 二人の沈黙のなかを、すぐ裏にある神田明神の杜に遊ぶ野鳥の声が流れていった。
「聞こう」
 斉韶も腹をくくったのか、毅然とした眼差しを喜久左衛門に向けた。
 二人のいる奥座敷の空気が、たちまち張りつめたものに変わった。
 喜久左衛門の決意を聞き終わって、斉韶は沈思していたが、やがてぼそりと言った。
「大御所様がお隠れになってどれほどになるかの」
「三年に」
「そうか、三年か……いまが潮時かの」
「今こそ、そのときかと」
「喜久左、わしに許しを請いにきたといったが、その一計、わしの意に反することと思うか」
「それでは……」
「わしの永年望むところでもあった」
「そのお言葉、安堵いたしました」
「わしはよき家臣に恵まれた」
 斉韶は感に入ったように、ぐっと唇を噛みしめた。
「もったいないおことば」
「これは、奥の敵討ちでもある」
「………」
 喜久左衛門は頭を垂れた。今も妻女至誠院の死に胸を痛めている斉韶に感じ入ったのだった。
「だが、喜久左」斉韶が険しい目を向けた。「その前にひとつ約定してもらわなければならぬことがある」
「……約定とは?」
「おぬし、その一計を成し遂げたら、腹を切るつもりであろう」
「………」
 喜久左衛門は言い当てられて息を呑んだ。もちろん、その覚悟だった。おれは一度死んだのだ、と思う。職を退いて隠居となったあの日、おれは死んだのだ。
すでに死んだ命をもう一度絶つことに何の痛惜があろうか。
「なぜそのほうが腹を切る」
 斉韶の声が聞こえた。
「おのが主君を殺めるのです。不忠の大罪ですぞ」
「隠居の老いぼれが我が身ひとつですべての責を負おうというのか」
「………」
「死ぬことは相ならぬ。喜久左が死ぬというなら、その一計、断じて許すわけには行かぬ」


 膳の酒盃に伸ばしかけた江戸家老吉添文吾の手が止まった。
「斉韶さまもご承知ですと?」
「ご承知というより、これは上様のご内意でもあるのだ。わしはご下命と受け止めている」と喜久左衛門は言った。「ことは急を要する。ただちにかかれと」
 文吾は腕を組み、ううむ、と低く呻いた。
 霊岸島にある小料理屋「いと屋」の奥の小座敷である。酒問屋が軒を並べるこの界隈では、小料理屋や居酒屋も多く、出てくる酒はどこでも旨い。
 「いと屋」は店の構えも小さく、身分のある武家が使うような格式のある店ではなかったが、密談のため、あえてここを選んだのだった。
 文吾は申し伝えたとおり、供は連れず、脇差一腰と地味な着流し姿でやって来た。喜久左衛門も媚茶色の軽衫に脇差一腰で、竿と魚籠でも持てばまさに
魚釣りに出かける隠居姿だった。店は混み合い、職人や漁師など酔客の賑やかな声が聞こえてくるが、ふたりがいる部屋なら盗み聞きされる心配はない。
「それにはまず藤井悦弥の動きを一刻も早く止めなければならん」
 と喜久左衛門は言った。
「悦弥はまだ見つかっておりませんが、徒士目付によると、鉄心会から姿を消した者がもう一名おるようでござる」
「誰だ」
「徒士組の田代なにがしの惣領で周蔵という者だそうです」
「悦弥と一緒だな」
「左様に思われます」
「斉宣のここひと月の日程は出ておるか」
「はい」
「他出の予定は?」
「花見ですかな」
「花見?」
「三年前からはじめたのですが、いずれも向島の墨堤で」
「開花は、あと二、三日後だろうか」
「いえ、墨堤の桜は八重桜ですから時期がすこしずれるはずです。ソメイヨシノが散りはじめるころに咲き始めましょう」
「なるほど」
「両国まで駕籠で行き、そこから船を何艘も仕立てて、呼び集めた女芸者や男芸者、万歳師、手妻師など大勢の芸人とともに川下りを楽しんで、
寺島村の渡し場から陸に上がって、そこで宴を張ってどんちゃん騒ぎをするのが恒例とか」
 上野は公儀の目が厳しく、酒宴も許されず、花見客は夕刻には追い出されるし、東叡山寛永寺の番人である山同心の目もある。
飛鳥山や御殿山はそれほど厳しくはないが、公儀の目があることに変わりはない。斉宣は八重桜が好きだからではなく、公儀の目が届かないから向島を
選んだにちがいなかった。
 喜久左衛門は思案をめぐらせる。
「その日の警固は?」
「いつもは近習組から四名出ますが、今年は鉄心会のことがあるので十名に増やすように命じました。それと小姓が三名」
「ま、それくらいいれば心配はなかろう」
「は」
「その花見に銀丞は同道するのか」
「例年通りなら今年も」
「さようか。銀丞も若いころ剣で鳴らしたというから、警固の助けになろう」
「われらの計略を進めるには、近習組や小姓も加えなければなりませぬな」
「それと、なにより御医師だ。近習医長の桂斎がいいだろう」
「わかりました」
「近習頭取のなにがしといったか。その者は信用できるか」
「浅野井武親ですか? 人物はまちがいありません。御家のためとあれば身命を惜しまず働きましょう」
「それは心強い。よしなに頼むぞ」
「心得ました」
 文吾は、恐れることもためらうことも、そして、必要以上に昂ぶることもなかった。やるべきと判断したときには、感情に惑わされず、冷静沈着に、
確実に、物事を進める男だった。
 ふたりの密談は二刻(四時間)にも及び、計画は、綿密に練られた。