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夜が明ける(上) 第98回オール讀物新人賞最終候補作

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「なに? あの一件か」
「はい。いたくご立腹の様子で」
 十日ほど前、家督を継いで藩主となった十五歳の斉宣が初の国入りをした。事件は、その参勤交代の道中に起きた。尾張藩領を通過中、
三歳の幼子が行列の前を横切ったのである。行列に行き合わせた村民たちは沿道に平伏して通過を待っていたが、たまたま猟師の息子が親の手を
離れ飛び出してしまったのである。腹を立てた家臣たちがその幼子を捕らえ宿泊先の本陣へ連行した。村民たちが押し寄せ懇願したにもかかわらず、
十五歳の斉宣はみずから太刀を取り、一同の目の前で幼子を斬り捨ててしまったのである。
 これを知った尾張藩は激怒し、御三家筆頭の面子にかけて今後は尾張藩の領内の通行は相成らぬと伝えてきたのである。
「たしかに一大事」
 眉間に皺を寄せ、喜久左衛門は愕然として慨嘆した。
「いかが致しましょう」
 斉宣が江戸にもどってくるのは一年後である。そのときにはまた尾張藩領を通らなければならない。
「ほかの街道を使うしかあるまい」
「ほかに街道などありません。使うとしたら奥深い山道しかございません。細く険しい獣道のようなもので、大名行列が通るのは至難でございます。
それに、何日も余計にかかりますし、雨や嵐に遭えば、死人がでることも……」
「しからば……」しばし考え込んで喜久左衛門は言った。「行列は立てず、藩士たちは脇差一本を帯びるだけにして、百姓や町人に擬装して通る
しかないな」
「仮装して尾張藩領を通るのでございますか?」
「そうじゃ」
「殿も?」
「やむを得まい」
「しかし、それはいくら何でも……」
「相手は御三家筆頭の徳川様ぞ」
「むむ………」
「いたしかたあるまい、天に向かって唾を吐けば、わが身に降り落ちてくるのだ」
 不機嫌に顔を歪め、吐き出すように言った。
 喜久左衛門は十五歳の藩主の顔を思い浮かべ、「あの痴れ者が」と憤怒にまかせて吐き捨てたが、もちろんそれは胸の裡のことで、声に出すことは
なかった。
 斉宣が裡に抱える狂気は、すでにこのときから顕在していたし、それは生まれついてのものかも知れなかった。
そのような者が藩政に関わってくれば御家はどうなってしまうのだ、と喜久左衛門は暗澹たる思いに囚われる。


「吉添」
 大きな声が廊下に響き、振り返ると、役部屋に入ってきたのは側用人の袴田銀丞だった。
「や、有賀殿」喜久左衛門に気づいて、足を止めた。「どうしてここに?」
「ひさしぶりに吉添殿の顔が見たくなりましてな」
「いやいや」
 銀丞は、皮肉めいた笑みを浮かべて近づいてくると、言った。
「江戸屋敷の中枢で辣腕をふるっておられたころが懐かしくなられたかな?」
「さようなことは」
「また執政に返り咲こうと?」
 嫌みな笑みを浮かべて喜久左衛門を見た。
 江戸家老だった喜久左衛門を失脚に追いやった張本人が、銀丞だった。
 銀丞は思い出したように文吾のほうを振り返って言った。
「吉添、火急の用とはなんじゃ」
「殿のお命を狙う者がおります」
「なんと……」
 銀丞は身体を硬くした。
 文吾があらましを説明して言った。
「大目付に手配り万端にと命じましたので賊はまもなく取り押さえられましょうが、用心に越したことはござらん。しばらく目立ったことは
控えられるがよろしいかと」
「目立ったこと?」聞きとがめ、銀丞が目をつり上げて言った。「目立ったこととは何のことを申しておるのかな」
「左様……たとえば人の出入りが多い催しや大勢の供を連れての他出などは」
「鷹狩りも茶も武士の嗜み。それをいらぬ贅沢事と申すのか」
「いや、そのようなことは……」
 斉宣は昨年茶道に目覚め、裏千家に入門して奥儀を授けられた。それを機にたびたび貴人を招いて茶会を催すようになり、その費用も馬鹿に出来ない
ものだった。
 ただでさえ十万石格という藩の格式の維持に汲々とし、将軍の子であるがゆえに莫大な支出を余儀なくされているのに、遊興にうつつを抜かし、
好き放題に金を使って、勝手向きを苦しめているのはほかならぬ斉宣だった。
 銀丞は腹立ちがおさまらぬのか、さらに言いつのった。
「そのほうはことあるごとに藩の台所の苦しいことを楯に、殿のなされることに難癖をつける」
「そうではござらぬ。刺客に狙われやすいことはしばしお控え願いたいと申しあげておるだけで」
「警固を盤石にすれば良いだけのこと。おのれの不首尾を棚に上げて、殿に責を押しつけるか」
「いえ、決してそのような」
「吉添、肝に銘じよ。江戸家老たるもの、在府の殿をお守りするのが至上の使命。それを忘るるでないぞ」
 斉宣が松平家に養子入りするとき、側近の付き人として二人の人間が付いてきた。一人が田安家の用人を務めていた青木甚左衛門で、もう一人が御用人格の
袴田銀丞だった。
いわばそれは幕府が命じた斉宣の世話役であり後見人だった。
 銀丞は、斉宣が十五歳で藩主の座に着くと同時に、側用人となった。
 御側御用取次である側用人が藩政に力を持つようになるのはめずらしいことではない。家老たち執政が藩主に意向をはかりたくとも、それを取り次ぐも
取り次がぬも側用人の胸三寸しだいであり、側用人が案件を意図し、それを殿のご意向であると強弁すれば通すのも難しくはない。つまり、思うがままに
藩政を動かせるのだ。
 銀丞は大御所家斉公の命を受けて入ってきた人間だから、松平家としてもないがしろには出来ず、結果としてその専横を許すこととなってしまった。
高飛車な物言いも立ち振る舞いも、すべては将軍家の威光を背負っているからだった。
 養子の斉宜が藩主に直った時、明石藩は二万石の加増を受けて八万石となった。しかし、斉宣はさらに十万石への加増を幕府に求めた。
将軍の子が大名になると、御三家への挨拶が慣例となっているのだが、尾張徳川家に挨拶に上がった際、正門を通れるのは十万石以上の大名に限るとされ、
側門を通らされるという屈辱を味わったからだった。十万石の願いを出したのは、銀丞の差し金だったのではないかと言われている。
 ひょっとすると、と喜久左衛門は思う。お手伝い普請についての憤懣も、斉宣自身の意思ではなく、銀丞に焚きつけられたからではないのか。
 銀丞は、
「殿に万一のことがあったときは、わかっておるな? 腹を切るだけでは済まぬぞ。御家取り潰しと覚悟せい」
 言い捨てると、喜久左衛門に一瞥をくれることもなく出て行った。
 久方ぶりの愛弟子との再会は、不快きわまりない罵声で汚された。



      二

 喜久左衛門は、床の中からじっと天井を見つめていた。
 昨夜はあまり眠れなかった。しばらくうとうとしたが、未明に目が覚めると、もう眠れなくなってしまった。
 いまは寅の刻(午前四時半)を過ぎたころだろうか。暗い空から姿を現した朝の日を受けて障子のそとが白みはじめている。
 江戸家老の職を離れて、喜久左衛門がいちばん戸惑ったのは、時の過ごし方である。手足をもぎ取られたように、することが何もなかった。
勤め一筋だった自分には、気づけばこれといった趣味もなく、あらたになにかはじめるにしても、興味をそそられるものも見つからなかった。