夜が明ける(上) 第98回オール讀物新人賞最終候補作
しかしそれでも、気持ちを奮い立たせて通りへと足を踏み出した。
空は晴れ渡り、雲一つなかった。まだ肌寒いとはいえ、陽射しは柔らかくなり、春の気配を感じる。
ときおりすれ違う藩邸内の人々のなかには、羽織を着ていない者もちらほらと見かけた。もうすぐ桜の季節である。
喜久左衛門が江戸家老を辞して息子の聡兵衛に家督を譲り、隠居の身となって五年になる。
そのころから目に見えて顕著になってきた肉体の衰えに気づくたびに、このまま老いさらばえ朽ち果ててしまうのか、
と切ない思いに囚われた。
少しは鍛え直そうと思い、何十年ぶりに藩邸内の氷野道場に通いはじめた。若くして当道場で直心影流の免許を受け、
居合い抜きの田宮流も修めたが、ひさしぶりに手にした竹刀は思うように動かず、足も運べず、最初はひどく往生した。
しかし、稽古をつづけるうちしだいに勘が戻ってきて、
いまでは若い頃とまでは行かぬものの互角以上に打ち合えるようになった。それを見ていた道場主の鍋田心衛に頼まれ、
今では年少の門弟たちに稽古をつけるまでになっていた。
喜久左衛門にとって、今日たまたま耳にしてしまった悦弥のことは、そんな夕凪のような長閑な日々に突然降りかかってきた災厄のようなものだった。
悦弥の住む表長屋を探り当て声をかけると、出てきたのは四十半ばと見える母親だった。息子を訪ねてきたのが見知らぬ老人だったからだろう、
母親は怪訝そうな表情を浮かべ、悦弥は帰って来てすぐに出て行ったと言葉少なに答えた。
「どちらへ行かれたか存じ寄りか」
「いえ……、聞いておりませぬ」
「では明日にでもまた来てみよう」
「いえ、それが……」
「ん?」
「しばらく家には戻らないと……」
その一言で、にわかに戦慄が奔った。
しかし、それを悟られないよう、のんびりした声音をつくって言った。
「ならば、いたしかたない。戻ったときは、有賀が話をしたがっていると伝えてもらいたい」
「あの……どちらの有賀様でしょうか」
「なあに、氷野道場の剣道仲間だ。そう言えば息子殿もわかり申す」
悦弥が姿を消した。斉宣公の命を狙うというのは一時の妄念でも大言壮語でもない。本気なのだ。そうなると、もう、わし一人の手には負えない。
喜久左衛門は表長屋をあとにすると、すぐに江戸家老の役宅に足を進めた。
本来なら大目付か近習頭取にでも知らせるべきだろうが、そのまえに、江戸家老に話を通しておくほうがいいと判断したのだ。
悦弥の言動を知って、ここ数年、家中にくすぶっていた憤懣がついに飽和状態に達したような切迫感にとらわれていた。
江戸家老の吉添文吾に面談を申し出ると、すぐに役部屋に通された。今は隠居の身とはいえ、かつての威光はまだかろうじて残っているようだった。
文吾はまだ役部屋にいた。七年前、当時三十二歳で江戸留守居から家老に転じ、三年前には江戸家老に昇った。若い頃から切れ者と評され、
人格も備えた頼もしい男である。
「やあ、有賀様、おひさしぶりでございます。本日はいかがなされました」
文吾は机の書類から目を上げると、親しげな笑みを浮かべて言った。
ひさしぶりに会うその容貌は、いささかふくよかになったように見えたが、濃い眉と鋭い眼光は昔のままである。
「お勤め中、恐れ入る」
喜久左衛門はかしこまった言い方をし、立ち上がろうとする文吾に手を振って席にもどらせ、向かい合って座った。
「お勤めを離れてどれほどになりますか。ご壮健なようで、なによりでござる。隠居暮らしはいかが?」
「その話はまたの折りに」
そう断って、喜久左衛門はすぐに要件に入った。
聞き終わった文吾はすぐに大目付を呼びだし、経緯を話してただちに藤井悦弥を見つけだし身柄を押さえろと命じた。仲間がいると思われるので
鉄心会全員の身柄も押さえて取調べるようにと念押しするのも忘れなかった。
さらに近習頭取を呼び出し、一部に殿の命を狙う不穏な動きがあるので、なおいっそう厳しく警備に当たれと申しつけた。
そんな対応の早さと適格な采配ぶりを、喜久左衛門は感慨深げに見ていた。
文吾に対しては、今もわが教え子、という思いがどうしても抜けない。前髪の頃から知っており、氷野道場の同門でもあり、可愛いもう一人の
息子のようでもあった。
重職の家柄ではない文吾を小姓組に召し上げたのも喜久左衛門だったし、機会あるごとに重用してきたのも喜久左衛門だった。
それほど優れた人材だったし、おのが見る目に間違いはなかったと満足したのだった。
「袴田殿にもお知らせしておかねばなりませぬな」
文吾はそういって、至急お伝えしたいことがあるのでお越し願いたいと、かたわらにいた下僚の者に命じた。袴田銀丞は、藩主斉宣の側用人である。
下僚が出て行き、二人だけになると、喜久左衛門が言った。
「近頃、周丸はどうじゃ」
十九歳の藩主を幼名で呼び捨てにした。
「相も変わらずです」文吾は大きくため息をつき、一段と声を落として言った。「先だっても、狩りだと称して奥御殿の庭に百羽の鶏を放させ、
追い回してつぎつぎと斬り殺したそうでございます」
喜久左衛門は思わず眉間に皺を寄せた。
「一刀のもとに斬り殺してしまうより、血をほとばしらせもがき苦しみながら死んで行く様を眺めるのが何よりも楽しいのだと」
文吾も嫌悪感を露わにしていった。
斉宣の奇矯や無法ぶりは今に始まったことではない。そしてその残虐な行為は、いつも猟奇的な匂いを帯びていた。
「さらに悪いことに、近頃は、家政向きにまで口出ししてくるようになりました」
「それは困ったものだの」
「先日も、それがしと留守居役の横井泉次郎が呼びつけられ、ひどく叱責をうけ申した」
「なぜゆえ?」
「ご存じかとは思いますが、今年三月、江戸城本丸で火を出しましてな、当藩がその改築普請を命じられたのでございます。
藩財政が窮しておるこのときになぜお手伝い除けができなかったのか。御公儀への根回しが不首尾だったと、激して横井を足蹴にいたしました」
お付きの小姓や女中が殴られたり蹴られたりということは以前にもたびたびあった。しかし、親ほども年上の重臣を足蹴にするとはなにごとか。
喜久左衛門がすぐに思い出したのは、四年前の事件である。
斉宣は、藩主となって初の国入りをしたとき、松平家の名に傷をつける深刻な不祥事を起こしたのだ。
その日、麹町隼町にある松平家の江戸藩邸は、朝からどんよりと重い雲に覆われ、ひっそりと息をひそめていた。
喜久左衛門の致仕が決まって、最後の勤めとなる日のことだった。いつものとおり、朝の四つ(午前十時)より小半刻はやく出仕して御用部屋に
入ろうとすると、長い廊下のむこうから白髪の男が走ってくるのが見えた。江戸留守居役の横井泉次郎だった。
蒼い顔をしてやってきた泉次郎は、
「御家老、一大事でございます」
と言った。
「何事か」
泉次郎は人の耳をはばかるように廊下を見渡し、誰もいないと見ると、喜久左衛門とともに御用部屋に入り、座りもせずに言った。
「昨夜、尾張徳川家から呼び出しがかかりまして、今後、松平家が尾張藩の領内を通行することは断じてならぬと申し渡しがございました」
作品名:夜が明ける(上) 第98回オール讀物新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士