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桜咲くころ(下) オール讀物推理小説新人賞最終候補作

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「目に入れても痛くない子ですが、話によっちゃあ、お譲りしてもよろしいかと」
「おめえ、誰にものを言ってる? 町奉行の役人に脅しをかけようというのか」
「そんな大それたことは……。あっしはただ、切っても切れない親子の情の話をしているだけで」
 嘉之助の目が、どす黒い色に変わった。
「うげっ」
 いきなり腹に拳を叩き込まれ、甚平は胃の腑のものをあたりにぶちまけた。
「おめえは、この世にいちゃ、いけねえ人間だ」
 うずくまっている背中を蹴り飛ばした。激しい音をたてて、甚平の身体が、堀割の黒い水面を砕いて消えた。それでけりはついた。きたない血で刀を
汚すまでもなかった。

「父が、甚平を……」
 放心したように文史郎はつぶやいた。
 勝之進は、淡々とつづける。
「それを聞いて、わしは、ますます首を縦に振れなくなった。仮に紙の上のことだけとはいえ、そのような無頼の子を新田家に入れるわけにはいかぬ。
そう言うと、兄者は言ったのだ。勝之進、あの子は甚平の子ではないのだと」
「甚平の子ではない?」
「その赤ん坊は、父上の子だった」
「父上の子? 祖父の、平井宗右衛門様のことですか?」
「そうだ」静かにうなずいた。
「まさか……」
「それを聞いて、わしの肚は決まった。父上の子と知っては、是非もない。別腹とはいえ、わしたち兄妹の弟なのだ。見捨てるわけにはいくまい。
三津殿が子を亡くして人が変わったようにふさぎ込み、夜ごと忍び音に泣いていることも聞いていたし、断っては人の道に外れると思ったのだ。
そういうわけで、文史郎、安心せえ。おまえは、甚平の子ではない。祖父さまの子だ」
 勝之進の冴え冴えとした高笑いが、晴れ渡った晩夏の空に響いた。
「兄者によれば、おぬいの祖父様への献身ぶりは、奉公人を越えた頭の下がるものだった。昼夜の別なく襲ってくる喘息の発作に、湯を沸かし、薬を煎じて
飲ませ、ぬくめた手ぬぐいで胸を温め、背中をさすった」
 それでも子どもたちは、父の宗右衛門がおぬいと一緒になりたいと言い出したとき腰を抜かすほど驚き、嫌悪感を露わにした。耄碌して色惚けしたと
勝之進は嘆息し、世間の笑い者になると光代は泣いた。そのとき宗右衛門五十七歳、おぬいは十九である。今さら後妻を取る齢でもなく、色に惑ったと
思われても無理はなかった。
側女ではなく正式に祝言を挙げて夫婦になると言い張る父親に、子どもたちは激しく抵抗し、嘉之助は父に黙っておぬいを解雇した。
 宗右衛門の命が尽きたのは、それからまもなくのことである。最愛の女をもぎ取られて、生きる力を失ったのかも知れなかった。
 嘉之助が、おぬいが父の子を宿していたと知るのは、それから一年後、赤子を抱いて現れたときである。無情にも二人の仲を裂き、その結果、父を死なせ、
おぬいを不幸のどん底へ突き落とすことになった。
「そのときはじめて、わしたちはとりかえしのつかぬことをしてしまったと気づいた。兄者が甚平に制裁を加えたのは、おぬいと父上へのせめてもの
罪滅ぼしだったのだろう」
 勝之進は独りごつように言った。

 上野山下の五條天神門前町やその周辺には、料理屋や水茶屋が建ち並び、夜の五ツ半(九時)を過ぎても、灯が街を華やかに彩り、人通りは絶えない。
 文史郎は、すでに閉まった床見世の暗がりから、源八とともに、通りの向かいの水茶屋を見張っていた。文史郎が駆けつけると、源八が、野郎が店に
あがったのは半刻ほど前ですと告げた。
 ついに、浪人者、達川士門の居所を突き止めたのである。下谷の御家人町に小さな寺があり、そこの賭場に用心棒として潜り込んでいたのだ。
 源八が、平太ともう一人の下っ引きに命じて寺を見張らせていたのだが、ひと月たっても出てくる気配はなかった。それが今日、日も落ちたころ突然
姿を現したのである。
 士門が向かったのは、目と鼻の先にある門前町の水茶屋だった。水茶屋の体裁をとる娼家である。文史郎の廻り場からはずれた下谷を選び、さらに用心に
用心を重ねて籠もっていたのだろうが、さすがに息が詰まり耐えられなくなったとみえる。
 さらに一刻ほどの時が流れて、人通りがまばらになってきた。
 女の声がして振り向くと、水茶屋の店先に背の高い男が立っていた。
   出て来た。
 浪人は、送りに出た女の愛嬌にも応えず、ついと背中を向けて歩き出した。
 二人はあとをつけはじめる。
 浪人は、懐手でのんびりと東の方に歩いて行く。辻を右に折れ、やがて大きな寺に入って行った。そこは士門の居留する寺ではない。これが近道なのかもしれない。
 まずいと文史郎は顔をしかめる。寺は寺社奉行の管轄だから、捕物をすることは許されない。
厳密にいえば境内までは町方の領分だから足を踏み入れるのはかまわないのだが、そこで捕物をしては、あとで御寺社から抗議を受けるかもしれない。
しかたがない、引きずり出してそとで捕らえたことにしてしまおうと肚を決める。
 月が明るい。
 白い月明かりに塗り染められ、広い境内がひっそりと広がっている。玉砂利を踏む三人の足音が月明かりに吸い込まれてゆく。
   ここいらでよかろう。
 文史郎は、下腹に気をこめると、声を発した。
「達川」
 浪人の足がひたと止まった。
 背を向けたまま静止していたが、やがてゆっくりと向き直った。
 狂気のほとばしる氷のような目は、まぎれもなく達川士門のものだった。
 あとをついてくる男たちに予感のようなものがあったのだろう、文史郎たちを見ても表情は動かなかった。
「探したぜ、士門」
 士門は、こちらを凝視したまま、懐から両手を抜いてだらりと下げた。
 源八が十手を抜いて構える。今にも飛びかかっていきそうな気配である。だが、いくら腕っぷしの立つ源八でも、この手練れの剣客を十手一本で
取り押さえられるはずはない。
 文史郎は、浪人に目を向けたまま源八に声を投げる。
「親分、あんたはここで見物しててくれ」
 浪人に言う。
「拐かし、ならびにおぬいと弥三郎を殺しにかかった罪で召し捕る。すでに弥三郎と友吉は、伝馬町の牢屋でお裁きを待つ身だ。てめえもおとなしく
お縄につきやがれ」
 士門は、無言で刀の柄頭を押し下げ、鯉口を切った。
「おれのいったことは聞こえたな? それでも手向かうなら、斬るしかねえ」
 浪人がひらりと白刃を抜いた。
 文史郎は雪駄を脱ぎ捨てる。
「お役目柄、いちおう言ってみただけだ。はなからこうなると思っていたさ。来やがれ」
 刀を抜いた。威勢はよかったが、勝つ自信はなかった。浪人の腕は、熊井町の空き家で向き合ったときわかっている。
 文史郎は中段に構える。
 士門は刀を持ったまま、両手をだらりと垂らして突っ立っている。一見無防備に見えるが、凍るような殺気が伝わってくる。
 文史郎は、玉砂利を鳴らして二間ほど右手に回り込む。背中に負った明るい月が、相手の全貌を白く浮かび上がらせた。
 士門の剣先がすっと斜め前にあがった。わずかに腰を沈めた独特の脇構えである。
 士門の剣先が月明かりを受けて白く光ったと思った刹那、すさまじい勢いで頭上にふり落ちてきた。
 かろうじて跳ね上げ、二度、三度、撃ち合う。火花がはじける。