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桜咲くころ(下) オール讀物推理小説新人賞最終候補作

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血がつながっていようがいまいが、親子の遠い近いや情の篤さに、露ほどのちがいもない。
「きっとどこかで元気にやっているだろうよ」
 文史郎は、また能のないことを言ってしまった自分を呪ったが、ほかに言うべきことばが見つからなかった。
 その後の調べで、浪人の名前がわかった。達川士門。齢は三十前後、八王子のほうから流れてきたようだと貸元の友吉は言った。士門は霊巌寺裏の
賭場にはもどらず、そのまま行方をくらましていた。

 麹町二丁目を過ぎて右に折れ、広い坂道をゆっくりと上って行く。ついこのあいだまでの蒸し暑さが嘘のように、ここ数日はからりとしているので、
坂の上り下りもさほど苦ではない。
 叔父の新田勝之進の屋敷は、番町法眼坂の中ほどにある。勝之進が遠縁の新田家に養子に入った頃、居宅は牛込神楽坂下の揚場にあったのだが、
そこから移り住むたびに屋敷は大きくなり、四年前、やっとここに落ち着いた。
 新田家はもともと、九十石の非役小身の旗本だったのだが、養子に入り総領となった勝之進が十四のとき小姓組の番士に召し出されてから、家運は一変した。
謹厳実直と豪放磊落(ごうほうらいらく)を併せ持った性分がなしえたのか、異例の出世を遂げた。徒士頭、目付を経て遠国奉行、さらに昨年、
長崎から呼び戻されて作事奉行を任じられた。
今や、二千三百石の大身である。町奉行になるのも時間の問題といわれている。
 そんなわけで、一介の町方同心がおいそれと目通り叶う相手ではないのだが、勝之進は、文史郎が願えばいつでも会ってくれた。
生みの親でもあるこの叔父を
尊敬し慕ってもいたが、両親が健在のころは気兼ねもあって、頻繁にまみえるわけではなかった。父の臨終で再会したのも、母親の葬儀以来のことである。
 門番所で訪いを告げると、若党らしき男が出てきて、門径をはずれ小石を鳴らして屋敷地の奥へと案内していった。通されたのは広大な庭である。
夏の日差しの下に
大木の欅や楓が茂り、松やサツキのなかに池や築山も見える。
 土蔵脇の盆栽棚の鉢に鋏を入れていた勝之進は、文史郎の姿を認めると、「おう、よく来た」と穏やかな笑みで迎えた。
 文史郎は、ここ半月ほど思い悩んでいた。思いつめて、叔父に長い手紙を書いた。ほどなく返事が届いた。日時と、この日に屋敷にあがるようにと
書かれただけのごく短い文面だったので、今日は、不安を抱いたままの訪問となった。
 若党が立ち去るのを待って、文史郎は言った。
「せっかくのお休みを申し訳ありません。思い悩んだあげく、叔父上におすがり申した」
「ここのほうがよかろう。話が話だからな」
 おもてで二人だけで話をするのは、叔父の心遣いだった。
「で? 何が聞きたい」
「手紙にもしたためましたが、父嘉之助が息を引き取るとき、申したのでございます。おぬいを気にかけてやれと」
「兄者がなあ」
「叔父上、わたくしは、誠に叔父上の子なのでございましょうか」
 フッと息を漏らして、勝之進は文史郎を見た。
「なぜそのようなことを訊く」
「まっこと、勝之進様の血を受けた子なのですか?」
「そうだ」
「三十一年前、当家にいたおぬいという女中が子を産みました。甚平という無頼の子です。甚平の暴力が凄まじく、殺されると思ったおぬいは、うちの
父のところへ赤子を預かってくれと頼みにきたそうです」
 勝之進は盆栽の松を剪定しながら、「それで?」と無表情に声を返した。
「その子はどこぞの者に引き取られたということですが、今どこでどうしているのでしょうか」
 パチッと鋭い音がして、切り落とされた小枝が飛んだ。
「それを聞いてどうする」
 文史郎はまっすぐに訊いた。
「その赤ん坊は、わたくしではないのですか?」
「なにゆえそう思う」
「どこかにもらわれていったおぬいの子とは、わたしのことではないかと。わたしには、甚平の穢れた血が流れているのではないのかと」
「思い当たる節はあるか。感情が激して抑えられなくなることがあるか。わけもなく人を殴りつけたり殺したくなることがあるか」
「わたくしが平井家に入る半年ほど前、母の三津は子を亡くしております。そのときの打ち沈みようは、尋常でなかったと聞きおよびます。それを見て父も
心を傷めたことでしょう。そう思ったとき、ひとつの疑いが湧いたのです。おぬいの子を養子に出したというのは作り話で、そのまま平井家の子に
してしまったのではないのかと」
 勝之進は文史郎を見て深々とため息をつくと、ふっと笑いをこぼし、独り言つように言った。
「隠しおおせぬか……」
 叔父のつぎのことばを、文史郎はじっと待った。
「……そなたの文言を読んで、ここまで調べられては、もう隠しおおせぬと肚をくくった。おまえは、真実を知っても心が壊れてしまうほど弱い男ではないしの」
「それでは……」
「おまえの推量どおりだ。だがしかし、肝心の一点に大きな見誤りがある」
「それは……」
「兄者が、つまり、おまえの父親がいきなりやってきて、とんでもないことを言い出した。どこかの赤ん坊を新田家の子にしてくれないかと。書類上のことは、
自分が細工するからいっさい迷惑はかけないと。あまりに突拍子ない頼みごとに、わしは、いくら兄上でも、そのような無茶は聞けませぬと断った。
しかし、兄者は引き下がらなんだ」

 おぬいが乳飲み子を抱いて平井家にやってきたのは、折も折、やっとできた長子をあっけなく失い、三津が失意の底にあったときである。
「宗一郎が生まれ変わって帰って来たのです」三津は、おぬいの赤ん坊を抱きながら、亡くした子の名を口にした。
「この子が生まれたのは、宗一郎が亡くなったつぎの日というではありませんか。生まれ変わりに相違ありません」
 三津は、この子をうちで引き取ろうと言い出した。情が移り離れられなくなったのかもしれない。嘉之助は、その言葉に動かされて、決意した。拐かし事件を
捏造し、勝之進の籍を借りて文史郎を我が子としようと。すべては、三津のためだった。
 赤ん坊を預かって二十日ほどたったある日、嘉之助が様子を見に行くと、おぬいは床のなかにいた。
「どうした」
 赤黒く腫れあがった口で、おぬいは言った。
「子どもをどこへやったと問い詰められて、とうとう白状してしまいました。あの子が……誰の子かも」
 ふだん感情をおもてに出すことのない嘉之助の顔が、剣呑にゆがむのをおぬいは見た。
「やつは?」
「出かけました」
「どこだ」
「たぶん深川元町か八名川町あたりだと……」
 嘉之助は裏店を飛び出していった。
 泥酔し、六間堀端をふらふら歩いているのを見つけた。
 先に声をかけてきたのは甚平のほうである。
「ちょうどよかった、明日にでも旦那の御屋敷に伺おうと思っていたところで」
「何用だ」
「あの赤ん坊はうちら夫婦の子だ、お返しいただけませんかね?」
「幾度も殺しかけたというではないか」
「かわいい子ほど、きちんと躾をしなきゃなりませんから」
「返さないといったら?」
「八丁堀の旦那が拐かしですか? そいつはうまくねえや。手放したくない気持ちもわからないわけじゃございませんが」
「……金か?」