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桜咲くころ(下) オール讀物推理小説新人賞最終候補作

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 斬り上げざま後ろに飛んだ。
 青眼に構えをもどし、間合いをとる。
 息が乱れ、肩で息をする。相手は八双に構えたまま、微動だにしない。
 感じる。こいつの剣法は、道場の稽古で鍛えたものではない。邪剣だ。人を斬るたびに身体で覚えた人殺し剣法だ。こいつの刀は、何人の血を
吸ったのだろう。
   やられる。早いとこ片づけちまわねえと、やられちまう。
 士門がじりっ、じりっ、と間合いを詰めてくる。
 打ち込もうとしたとき、一瞬早く相手が飛び込んできた。鋭い太刀筋だった。
 それを正面で受け止める。押し返すが、相手の力は強い。強いというより、堅い重さでねじ込んでくる。
 足下でジャリッと音がした。踏み固めた右足が滑った。
 支えを失い、身体がふわりと浮いた。倒れこむ文史郎の身体を追いかけて、横ざまに士門の一撃が襲ってくる。
 身をよじりかろうじてかわしたが、刀がはじき飛ばされ、手を離れて暗闇に消えていった。
 倒れ込んだ手の下に玉砂利があった。間髪おかずに斬り下ろしてくる士門が見えた。掴んだ玉砂利を投げつける。
 士門の目に当たり、動きが一瞬止まった。
 すかさず脇差しを抜き、喉元目がけて突き上げる。
 大きな身体が硬直し、やがて糸が切れたように地に沈んだ。
 茫然と、目の前の死体を眺めていた。
「旦那」
 気づいて振り向くと、源八がいた。
「お怪我はありませんか」
「……ああ」
「旦那の刀裁き、はじめて拝見させていただきました。見事なもので」
「なにが見事なもんか」文史郎は自嘲した。
 こいつに勝てたのは、おれのほうがもっと邪剣だったからだ。

「ばあさん、いるかい」
 声をかけて開けると、縫い物をしているおぬいがいた。はじめて訪ねて来たときとおなじだった。だが、そこからがちがった。
「あら、旦那」
 おぬいが破顔して文史郎を見る。
「大福だ。食わねえか」
 手にした経木の包みを差し出す。
 腰を浮かしかけたおぬいに、「いいよ、おれが茶を淹れてやる」と言って上がり込んだが、ふと立ちつくし、部屋を見回す。勝手がわからぬ。
「茶葉はどこだ」
 おぬいが苦笑いして立ち上がる。
「わたしが淹れましょう。お武家様にそんなことさせちゃ、罰が当たります」
「なにを水臭せえこと言ってやがる」
 それでも文史郎は、刀を壁に立てかけ、空いた場所を見つけて座る。縫い物や裁縫道具を広げた四畳半ひと間は、座るすき間を見つけるのも
ひと苦労である。
 おぬいは竈に眠っている薪の火をおこし、茶の用意をはじめる。
「今日はもうお役目はおわりですか?」
「おう」
 町廻りを早めに切り上げ、与吉は先に帰した。
 おぬいが茶を淹れて文史郎の前に置く。
 これがおれの母親か、とまたかすかな感慨をもって見る。その目に気づいて、おぬいが不思議そうに首をかしげる。
 今ではおぬいが生みの親だと知っているし、文史郎がそれを知ったことをおぬいもうすうす感づいているはずなのに、どちらからもそのことを
口にすることはなかった。
文史郎は、「ばあさん」から「おふくろ」へと呼び方を切り替えるきっかけを失してしまっている。
 甚平の死は事故だったとおぬいは言ったが、甚平が川流れの死体となって発見されたのは、嘉之助が事情を聞いて飛び出していった
翌る朝のことである。
おぬいは、感づいているにちがいないと思う。だが、そのことを蒸し返すつもりもない。
「食え。江戸一番の大福だ」
 包みを開け、おぬいに大福を勧めて自分も頬張る。
「美味しいですよねえ、ここの大福は」
 おぬいはいつものように嬉しそうに味わう。品のいい、深みのある味わいである。
「伊勢屋の餡は格別だ。小豆は蝦夷産、砂糖は和三盆しか使わねえ。小豆に自信があるから、砂糖も塩も控えめだ。この味加減がまた、品がいいときてる」
 すべて源八親分の受け売りである。毎度聞かされる口上だが、おぬいはにこにことうなずいて聞いている。
「ところで、ばあさん、変わりはねえかい」
「いやですよ、つい三日前にもいらしたばっかりじゃありませんか」
 父の嘉之助が死んで七か月がたち、季節はもうすぐ春である。
 文史郎は、父の遺言を守るように、たびたび顔を出す。半刻も話し込んだり、たまには、おぬいがつくった夕飯を馳走になったりと、今では気心が
知れ合っている。
 このごろは、大黒店のこの小さな部屋が居心地良く、気が和む。おぬいは、ばばあ呼ばわりされても、むくれるでもなく、はいはいと笑っていなす。
それがまた文史郎には心地よい。
 おぬいを見ていると、七尾と重なることがある。おぬいは、身を挺して祖父を看護してくれたし、七尾は献身的に病持ちの父の面倒をみてくれた。
どちらも、健気で、働き者で、気働きがきく。心根が優しく、一緒にいると気持ちが安まる。
 嫁にするならこういう女でなくてはと思う。そんな女を虐待した甚平は罰当たりだし、添い遂げられなかった宗右衛門はさぞかし無念だったことだろう。
「今度、新造を連れてきてもいいか」
「こんなむさ苦しいところでよろしければ、いつでもどうぞ。ぜひともお目にかかりとうございます」
「一目で気に入るぞ。七尾はいい女だ」
「ごちそうさまです」
「惚気じゃねえよ。ほんとうによくできた女なんだ」
「七尾様がいらっしゃるから、そんな風に勝手をしていられるんでしょうね」
「ちげえねえ」
 夕餉がちかい。家々から女子供の声や菜を刻む音が、さざ波のように流れてくる。
 文史郎は、また来ると言って大黒店を後にした。
 まだ少し肌寒いが、気持ちのいい夕暮れ時だった。
 夜に向かって華やかに彩られつつある深川の大通りを、永代橋へと歩いて行く。
 橋のたもとの小さな木立が見えてきた。そこに一本の桜の木があることを文史郎は知っている。それをちらと横目で見て、橋を渡りはじめる。
花をつけるまでには、まだ半月はありそうだ。
 まだ早い時刻だから、深川へ遊びに出る男たちの姿はまばらである。家路へと急ぐのか、行き交う人々はだれも足早だ。
 おぬいは、うちの桜を見たことがあるのだと思う。八丁堀の家の前を行ったり来たりしたことがあるのだ。塀のむこうの我が子に思いをはせ、
あるいは通りを歩いていないか目をおどらせながら、あのあたりをいくども行き来したことがある。そんな母親の切ない想いを、文史郎は心の奥でしっかりと
受け止めている。
   そうだ。
 庭の桜が咲いたら、おぬいをうちによんでやろう。
 親子で花見をしながら、重のものをつつくのだ。七尾のつくる蛸の桜煮や卵焼きはとびきりだ。
 橋の上を、春の冷たい風が流れて行く。振り返ると、海面に点々と浮かぶ白い帆船のむこうに、緋色に染まる空が広がっていた。
 文史郎は、赤子のとき、おぬいに抱かれてこの橋を渡ったことに思い至る。これまで長いこと、何も知らず何の感慨もなく往来していた。
 今年といわず、桜の季節にはかならずよんでやろう。歩けなくなったら、負ぶって送り迎えしてやる。おぬいがおれを抱いてこの橋を渡らなければ、
おれは今こうして生きてはいない。生みの親であると同時に命の恩人でもあるのだ。おれを受け入れた嘉之助と三津もまた、親であり命を救ってくれた
恩人である。