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桜咲くころ(下) オール讀物推理小説新人賞最終候補作

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 やにわに、弥三郎が出口に向かって走りだした。追いかけて捕まえたが、暴れもがく。
「じたばたするんじゃねえ」
 殴りつけ、押さえ込む。ハッとして振り返る。
「ちっ」
 思わず舌打ちをしていた。
 浪人は、もういなかった。

 おぬいの家に空き巣に入ったのは弥三郎だった。
 博奕で四十両という多額の借金をつくってしまい、おぬいの金を狙ったのだが、小判の詰まった瓶は見つけられなかった。返済を強く迫られた弥三郎は、
苦しまぎれに言った。蛤町のおぬいという女がしこたま金を貯め込んでいる。甚平殺しと子捨てを種に強請れば、博奕の借金はすぐに返せると。
 話に乗った貸元の友吉は、用心棒の浪人をついて行かせた。恐喝の手助けだけでなく、弥三郎の見張りでもあったろう。
 弥三郎から調べ書を取り終わった頃にはかなり遅くなっていたので、その晩は大番屋には送らず、熊井町の番屋に留め置くことにする。
空き家で見つけた仕立ての着物は、明日近江屋に届けさせることにした。
 おぬいは顔に痣ができていたし身体も弱っていたが、幸いおおきな怪我はしていなかった。
 文史郎は番屋での調べを済ませると、蛤町まで送って行き、布団をのべて座らせ、訊ねたいことがあると言った。
「お調べはもう終わったのでは?」
「そうじゃねえ、聞きてえのはわたくしごとだ」
 おぬいは寝床から不安げな目を向けた。
「うちには、はなから家宝の茶碗なんぞありゃしねえ。家を出されたほんとうのわけはなんだ」
 黙り込んでしまったおぬいに、文史郎は迫る。
 子掠いの一件をどうして隠したのか。どうしてその事件を、廻り場のちがう嘉之助が調べたのか。
「今日は、この間みたいにはいかねえぞ。得心するまで帰らねえ」
「あそこで、弥三郎とわたしの話をどこまでお聞きになったんです?」
 文史郎は答えず、無言のまま痩せた女をにらみ据える。
「隠しおおせませんね」
 遠くを見るような目で弱々しくため息をつき、おぬいは話し始めた。

 おぬいが赤子を抱いて平井嘉之助の家の門を叩いたのは、師走まであと数日を残す、ある夜のことである。
 一年ぶりに顔を合わせた相手に、おぬいはいきなり言った。
「この子を引き取ってください」
 必死に訴えるその顔には殴られた痣があり、赤子を抱く腕には擦り傷がいくつも見えた。冷え込む夜で、吐く息はうっすらと白いが、着ているものは
夜着の浴衣一枚である。
「わたしが殺されるのは、自業自得だからしかたありません。だけど、この子は死なせるわけにはいきません。無茶なお願いとは重々心得ておりますが、
ほかに頼れる人を知りません」
 門前払いを覚悟していたが、そうはならなかった。
「今夜はうちに泊まるとして……」三津が言った。「いっそ、お子を連れていずこかへ雲隠れしてしまってはどうですか?」
「何度も逃げだしました。でも、そのたびに見つかって連れ戻されてしまいます。このままでは、二人ともいつか殺されてしまいます」
 おぬいに暇を言い渡した嘉之助本人も、なぜか親身だった。
「よし、おれが亭主に説諭してやる」
「いけません、そんなことをしたら、かえってわたしが半殺しの目に遭ってしまいます」
 おぬいは、甚平の呪縛に囚われていた。
 嘉之助はそれを見抜いていただろうが、恐怖心に囚われてがんじがらめになっているから何を言っても無駄だと思ったのだろう、言った。
「わかった、その赤子はうちで預かってやる」

 文史郎がおぬいに訊く。
「で? その子はどうした」
「とある方に引き取られたとか」
「どこの誰に?」
 おぬいは力なく首を振る。
「知らねえのか?」
「はい。旦那様が、そのほうがよかろうと」
「ふうん……」
「子どもは拐かされたことにして、裏でもらい子に出してしまおうと言ってくださったのも、嘉之助の旦那でした」
「そういうことか……」
 これで、廻り筋でもない父が首を突っ込んだわけがわかった。
 調べも探索も奉行所への報告も、同心の父が塩梅よろしく采配したのだ。いわば、嘉之助とおぬいは共犯者だった。事件のことも父と再会したことも
言わなかったわけである。
「赤ん坊を預けて、おまえは寿助店にもどったんだな」
「はい。つぎの日、旦那さんが家まで付き添って来てくださいました。そのとき、女房に手を上げるなと叱ってくれたのですが、効き目があったのは、
ほんの二、三日のことでした」
 亭主の暴力は止まなかったということだ。
「甚平が死んだのは、それから半月ほどあとのことだ。あれはほんとうに川流れだったのかえ?」
「そうです」
「おまえがやったんじゃねえのか?」
「とんでもない。わたしは家で伏せっていました」
「伏せっていた? 患いか?」
「……」
 おぬいの沈黙が、その答えだった。甚平に足腰立たぬほど殴られたのだろう。それでは、いくら相手が泥酔状態でも、川に突き落とすことはできない。
 しかし、と文史郎に疑問が湧く。解雇した奉公人のためにそこまでするだろうか?
「もう一度訊くが、あんた、うちの親父とできてたんじゃねえのか?」
「そんなことはありません」
 おぬいは、そこだけきっぱりと言った。
「じゃあ、なんでそこまで面倒見がいい?」
「嘉之助様は、もともと情の篤いお方ですから」
「情が篤い? あの仏頂面が?」
 そう言いながらも、文史郎は思い出している。母の死の枕元で見た父の涙を。母を一筋に思っていた父を。
「しかしなんでまた、そんなたちの悪い男につかまっちまったかなあ」
 おぬいは自嘲的に語る。
 子どもが出来て何かと物入りも多く、店賃も滞りがちになった。しかし、子どもを産んだばかりで働きに出ることもままならない。父なし子を産んだ女に
世間の目は冷たく、突き刺すように痛い。にっちもさっちもいかなくなっていたところへ、笑顔のきれいな男が言葉巧みに近づいてきた。
心が弱りきっていたから、つい、その優しさにほだされてしまった。
 ほんとうに馬鹿でしたとおぬいは言って、力のない笑みを洩らした。
「その後、生き別れた子どもは?」
「さあ、どこでどうしているんでしょう……」
 七尾が平井家に嫁してきて五年、まだふたりに子はない。子ができないなら、父がそうしたようにどこかから跡目をもらえばいいと考えている。
自分も養子だが、三津は優しく、叱るときは厳しく、他の親に負けない深い愛情で育ててくれた。嘉之助の、一見冷淡にも見えるぎこちない情の表し方を
補う気持ちもあったのかもしれない。
 文史郎は、自分が他人の子だからだとねじくれ、思い詰めて、「どうせ自分は血がつながっていない子です。よそに養子に出してもっと出来のいい子を
もらおうというのでしょう」と泣いて訴えたことがある。
 そのとき三津は、毅然と言った。
「そうですよ、あなたはわたしがお腹を痛めた子ではありません。それがどうしたというのです? わたしたちにとって、大切な子であることに
変わりはありません」
 その言葉は断固として揺らぎなく、文史郎の胸を強く打った。
 いまだから思う。血のつながりなどいかほどのものか? 実の親に育てられるのも、そうでないのも、すべては縁であり、さだめなのだ。